「神風特別攻撃隊」の版間の差分

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Tonpuku (会話 | 投稿記録)
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[[1944年]][[10月5日]]、大西が[[第一航空艦隊]]司令長官に内定すると、軍需局を去る際に局員だった[[杉山利一]]に対して「向こう(第一航空艦隊)に行ったら、必ず(特攻を)やるからお前らも後から来い」と声をかけた。これを聞いた杉山は、大西自らが真っ先に体当たり特攻を決行するだろうと直感したという<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 502頁</ref>。大西は出発前、[[海軍省]]で海軍大臣[[米内光政]]大将に「フィリピンを最後にする」と特攻を行う決意を伝えて承認を得ていた<ref>金子敏夫『神風特攻の記録』p224</ref>。また、[[及川古志郎]]軍令部総長に対しても決意を語ったが、及川は「決して(特攻の)命令はしないように。(戦死者の)処遇に関しては考慮します」<ref>丸『特攻の記録』光人社NF文庫13-16頁</ref>「(特攻の)指示はしないが、現地の自発的実施には反対しない」と承認した。それに対して大西は「中央からは何も指示をしないように」と希望した<ref>戦史叢書17沖縄方面海軍作戦 705頁</ref>。大西は、軍令部航空部員[[源田実]]中佐に戦力を持って行きたいと相談するが、源田は現在それが無いことを告げ、その代わりとして[[零戦]]150機を準備すると約束した。その際にも、大西は場合によっては特攻を行うという決意を話した<ref>戦史叢書56 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 109頁、森史朗『敷島隊の五人―海軍大尉関行男の生涯 (下)』文春文庫89頁</ref>。
 
1944年[[10月9日]]、[[フィリピン]]に向けて出発した大西は、到着までに[[台湾]]・新竹で航空戦の様子を見学し、[[多田武雄]]中将に対して「これでは体当たり以外無い」と話し、連合艦隊長官[[豊田副武]]大将にも「(単独飛行がやっとの練度の)現状では被害に見合う戦果を期待できない。体当たり攻撃しか無い。しかし、命令では無くそういった[[場の空気|空気]]にならなければ(特攻は)実行できない」と語った。
 
フィリピンに到着すると、大西は前任者の第一航空艦隊司令長官[[寺岡謹平]]中将に「基地航空部隊は、当面の任務は敵空母の[[甲板]]の撃破として、発着艦能力を奪って水上部隊を突入させる。普通の戦法では間に合わない。心を鬼にする必要がある。必死志願者はあらかじめ姓名を大本営に報告し、心構えを厳粛にして落ち着かせる必要がある。司令を介さず若鷲に呼び掛けるか…。いや、司令を通じた方が後々のためによかろう。まず、戦闘機隊勇士で編成すれば他の隊も自然に続くだろう。水上部隊もその気持ちになるだろう。海軍全体がこの意気で行けば陸軍も続いてくるだろう」と語り、必死必中の体当たり戦法しか国を救う方法はないと結論して、寺岡から同意を得て一任された<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 502-504頁</ref>。