「マッタ・アヴ・スヴェーリエ」の版間の差分

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'''マッタ・アヴ・スヴェーリエ'''([[スウェーデン語]]全名:Märtha Sofia Lovisa Dagmar Thyra av Sverige, [[1901年]][[3月28日]] - [[1954年]][[4月5日]])は、[[ノルウェー]]王[[オーラヴ5世 (ノルウェー王)|オーラヴ5世]]の妃。オーラヴが即位する前に亡くなったため、王妃とならなかった。
 
[[スウェーデン]]の王族である[[カール (ヴェステルイェートランド公)|ヴェステルイェートランド公カール]]([[オスカル2世 (スウェーデン王)|オスカル2世]]の三男)と、その妃である[[デンマーク]]王女[[インゲボー・ア・ダンマーク (1878-1958)|インゲボー]]([[フレゼリク8世 (デンマーク王)|フレゼリク8世]]の次女)の次女として、[[ストックホルム]]で生まれた。[[ベルギー]]王妃[[アストリッド・ド・スエード|アストリッド]]の姉にあたる。
 
1929年3月に、従弟にあたるノルウェー王太子オーラヴと結婚。義父は[[デンマーク]]王子として[[イギリス]][[バッキンガム宮殿]]で[[イギリス]]王女[[モード (ノルウェー王妃)|モード]]と結婚式を挙げたためノルウェーでロイヤル・ウェディングが挙行されるのは367年ぶりだった。結婚後は、子供たちのために服を自身で縫うなどの姿が国民の共感を得、人気も高かった。1930年、[[南極]]の[[ドローニング・モード・ランド]]の海岸の一部はマッタを記念し、『プリンセス・マーサ・コースト』と命名された。ノルウェーの王族にちなんだ名前の海岸の中で最も広大な海岸である。1939年にはアメリカを訪問し、[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]][[フランクリン・ルーズベルト]]と夫人[[エレノア・ルーズベルト|エレノア]]と交友関係を結んだ。
 
1940年、[[ドイツ]]軍がノルウェーに侵攻すると、義父[[ホーコン7世 (ノルウェー王)|ホーコン7世]]と王太子オーラヴは抗戦するが敗退し[[イギリス]]へ逃れ、そこで亡命政府を樹立した。マッタは子供たちを連れて故国スウェーデンへ亡命した。マッタ母子を受け入れることでドイツの侵攻を受けると恐れる中立国スウェーデンでは歓迎されたとは言えず、またドイツ軍と傀儡政府が義父らの権利を剥奪しわずか3歳の長男ハーラル(のちの[[ハーラル5世 (ノルウェー王)|ハーラル5世]])をノルウェー王にしようとしていることを知った。更にスウェーデンに多数存在していた親独派らも息子を引き渡すように圧力をかけてきたことに身の危険を感じたマッタは、アメリカ大統領夫妻の招きに応じて、[[フィンランド]]からアメリカ海軍の軍艦で[[アメリカ合衆国|アメリカ]]へ向かった。マッタと子供たちはまず[[ホワイトハウス]]に数ヶ月、その後も[[ワシントンD.C.]]に住んだ。彼女は[[赤十字]]の活動に加わり、ノルウェーの窮状を訴えて連合国の援助を求めた。その姿に多くのアメリカ人が感動し、[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]][[フランクリン・ルーズベルト]]は[[:en:Look to Norway|Look to Norway]]と題した演説を1942年に行った。ルーズベルトのマッタへの敬愛の情は非常に深いもので、ルーズベルトにとっては最後の恋愛感情の対象でもあったのではないかと息子のジェームズ・ルーズベルトは述懐している。
 
大戦後、帰国したマッタを国民は国母として熱狂的に迎えた。1954年、癌のため53歳で死去。
 
息子である[[ハーラル5世 (ノルウェー王)|ハーラル5世]]の長女で、孫娘にあたる[[マッタ・ルイーセ (ノルウェー王女)|マッタ・ルイーセ]]王女]](1971年 - )のファーストネームはマッタにちなむものである。
 
2005年、[[ワシントンD.C.]]の駐米ノルウェー大使館にマッタの像が建てられた。
 
==子女==
*[[ラグンヒル (ノルウェー王女)|ラグンヒル]](1930年 - 2012年)
*[[アストリッド (ノルウェー王女)|アストリッド]](1932年 - )
*[[ハーラル5世 (ノルウェー王)|ハーラル5世]](1937年 - ) - ノルウェー王
 
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