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'''ヴァルター・ヴィルヘルム・ギーゼキング'''('''Walter Wilhelm Gieseking''', [[1895年]][[11月5日]] - [[1956年]][[10月26日]])は、[[ドイツ]]の[[ピアニスト]]かつ[[作曲家]]、アマチュアの[[チョウ|蝶]]類研究者。世界で初めて「ピアノのために書かれた作品を全て演奏できる」という特技をトレードマークにした。ピアニストであることの知名度に比べ、作曲家であることの知名度は圧倒的に低い
 
== 生涯 ==
世界で初めて「ピアノのために書かれた作品を全て演奏できる」という特技をトレードマークにした。ピアニストであることの知名度に比べ、作曲家であることの知名度は圧倒的に低い。
 
ギーゼキングは1895年11月ドイツ人の両親のもと、[[フランス]]の[[リヨン]]に生まれた。初等教育は「面倒くさい、私はもう読み書きが出来るのだから学校には行かない」と言って受けず、幼少時は家で百科事典と楽譜を読み漁る毎日だった。蝶の趣味はこの頃に覚える。両親が心配して[[ハノーファー]]の音楽学校を紹介し入学させた。そこで師のライマーを紹介され、[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]などの(当時の)現代音楽すら新刊を持ち込んでレッスンする姿勢に彼は大きな感銘を受けた。
 
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レパートリーは[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]や[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]など古典的なものから、よりモダンな[[フェルッチョ・ブゾーニ|ブゾーニ]]や[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]から[[ゴッフレド・ペトラッシ]]までと、幅広いものであった。[[1923年]]には[[ハンス・プフィッツナー]]のピアノ協奏曲の初演を行なった。しかし今日ギーゼキングは、もっぱら[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]と[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]、[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]の伝説的な演奏家として記憶されている(モーツァルトの全集はレコード会社から持ち込まれた企画であった)。作曲者の存命中に[[セルゲイ・ラフマニノフ|ラフマニノフ]]の協奏曲の録音にいどんだ、最初のピアニストでもある。その録音では、多くのピアニストがラフマニノフの弾いたテンポに勝てなかった当時ですら、ギーゼキングはラフマニノフ本人のテンポを忠実に再現し、ライブ演奏する優れ技を披露している(ただし、ミスはそれなりにあり、ラフマニノフ本人の完成度には及んでいない)。こういった辺りからも、「[[新即物主義]]」の片鱗がうかがえる。
 
ドビュッシーやラヴェルのピアノ曲は、たいてい運指やペダルの指定がなく、これらは演奏者の判断に委ねられている。殊にドビュッシーでは、ともすれば曲の見通しが曖昧模糊となりがちである。これに対して、ギーゼキングの演奏は曲の分析力が明晰で、当時のつたないアコースティック録音にもかかわらず、ニュアンスに富んだ繊細な音色と、多彩な表情の変化に満ちている。その上、演奏技巧に欠点がない。つまり、曲の解釈において迷いが無い。たとえばドビュッシーの《[[前奏曲 (ドビュッシー)|前奏曲 第1集]]》の「パックの踊り」は、これほどの速さで押し切っているにもかかわらず、まったくテンポやフレージングが乱れない。こうした特長のために、学習者の模範として使われてきただけでなく、後世のピアニストからはドビュッシーやラヴェル演奏の完成者として、到達目標として仰がれたのである<ref>使用ピアノは、グロトリアン・スタンヴェグであるといわれたが、EMIの撮影写真によりスタインウェイ・アンド・ソンズと判明した。</ref>
 
カール・ライマー(Karl Leimer)との共著により、ギーゼキングは2冊のピアノ奏法論を上梓した。「ピアノ奏法完成への早道」([[1932年]])と、「ピアノ奏法の諸問題~リズム、強弱、ペダルなど」([[1938年]])である。
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死去から半世紀を迎えた今なお、ギーゼキングは伝説のピアニストとして語り継がれている。ギーゼキングのCDは同じ内容のディスクを何度も回を重ねて発売されているが([[EMI]])、これは貴重な文化財保存という側面を持っているといえる。ペダル操作が比類なく、完璧なまでの作品の記憶力と、細部にわたって楽譜の忠実な再現、楽曲構造に対する明快な洞察力などで、同時代のピアニストの中でも卓越した存在だった。それでも、彼の全盛期はSP時代だと伝えられる。LP時代に入ってからのベートーヴェン全集やバッハのWTCでは一発撮りに近い不安定なテイクも少なくない。
 
戦後は「ブロードキャストリサイタル」という形で、放送用の録音を膨大に残した。この時期にベートーヴェンの中期から後期のソナタ、バッハのクラヴィア曲の大部分を録音した。<ref>LP時代にこれらが欠落したのはそのためである。</ref>
 
なおギーゼキングは戦時中の[[1945年]][[1月23日]]、最初期のステレオ録音が残されている。曲はベートーヴェンの[[ピアノ協奏曲第5番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第5番ホ長調Op.73「皇帝」]]である。録音場所はベルリン、指揮は[[アルトゥール・ローター]]、ベルリン放送管弦楽団である。
 
== 使用したピアノ ==
ギーゼキングは録音にどのメーカーを使用したのかについては、[[吉澤ヴィルヘルム]]の「ピアニストガイド」には「グロトリアン・シュタインベグ」と記されている。が、録音中のギーゼキングの演奏中のピアノの写真にはBECHSTEINの文字が記されており、当時のピアノメーカーの知名度を考えると、ベヒシュタインが正しいのではないかといわれている。ただし、これはモーツァルト全集が始まったLP時代のことであり、SP時代にどの楽器を使ったのかまではわからなくなっている。
 
[[バックハウス]]と異なり、「使用するピアノには特に拘泥していない」ということであったらしく、ドビュッシー全曲日本公演はスタインウェイで行われた。
 
ギーゼキングはドビュッシーの「ピアノのために」では第三ペダルを使用した痕跡が曲の頭にあり、これは第三ペダルを開発したばかりのスタインウェイ・アンド・ソンズであるとみられている。<ref>EMIのCD集ライナーノートには彼がスタインウェイを操る姿が撮影されている。</ref>
 
==備考==
[[園田高弘]]のデビューに際し、附けられたキャッチフレーズが「日本のギーゼキング」であった。<ref>園田の著書「音楽の旅 ヨーロッパ演奏記」にもそのように書かれている。</ref>
 
==参考文献==