「平致頼」の版間の差分

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[[長徳]]4年([[998年]])、同族の[[平維衡]]と[[伊勢国]][[神郡]]において合戦を繰り広げたため、のちに両者とも[[朝廷]]に出頭を命じられ尋問を受けたが、この際維衡は直ちに非を認めて[[過状]](詫び状)を提出し、[[位階]]は剥奪されずに[[淡路国]]へ[[移郷]]とされたのに対し、致頼はなかなか非を認めず過状も提出しなかったため、位階を剥奪の上[[隠岐国]]へ[[配流]]となった。3年後の[[長保]]3年([[1001年]])、致頼は赦免され五位に復されたという。
 
しかし[[寛弘]]4年8月に[[藤原伊周]]、[[藤原隆家|隆家]]兄弟が[[藤原道長]]暗殺を計画し致頼に命じていたという噂が流れていたとある。<ref>『[[小右記]]』寛弘4年(1007年)8月9日条</ref>[[長徳の変]]の際に致頼の弟の右兵衛尉[[平致光]]とその兄弟が伊周の郎党として検非違使に家宅に踏み込まれ逃亡していた<ref>『[[小右記]]』長徳2年(996年)2月5日条</ref><ref>『[[百錬抄]]』長徳2年(996年)2月5日条</ref>経緯があった。また致頼の姉妹が既に薨去していた伊周・隆家の父[[藤原道隆]]の[[家司]]の[[有道維広]]の室であり、その息子で致頼の甥に当たる[[有道惟能]]が伊周の[[家司]]だった事から伊周らはその繋がりで致頼と通じ接触した可能性もある(この時道長は[[金峰山]]に向けて8月2日に出立しており、13日には連絡をとる為の勅使として[[源頼定]]が派遣されたが、その翌日の14日に道長は無事戻ってきており結局暗殺計画は実行されていない)。
 
その4年後の寛弘8年(1011年)に卒去(『[[尊卑分脈]]』)。