「ハンス・デルブリュック」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m ボット: 言語間リンク 15 件をウィキデータ上の d:Q76575 に転記
7行目:
数年間ドイツ皇帝家のある王子の後見教育役を務めた後、志願兵として[[普仏戦争]]に従軍した。1885年には[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]教授(現代史)となり、また1884年から1890年まで[[帝国議会 (ドイツ帝国)|ドイツ帝国議会]]議員を務めた。[[第一次世界大戦]]終結後には[[パリ講和会議|ベルサイユ会議]]のドイツ代表団の一員となった。
 
デルブリュックの著作は主に戦争術の歴史に関するもので、その主著と目されるのは『Geschichte der Kriegskunst im Rahmen der politischen Geschichte』(政治史の枠組における戦争術の歴史。全4巻、1920年に第3版刊行)である。他の著作には『Die Perserkriege und die Burgunderkriege』([[ペルシア戦争]]とブルグント戦争、1887年)、『Die Strategie des Perikles erläutert durch die Strategie Friedrichs des Grossen』([[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ大王]]の戦略に見る[[ペリクレス]]の戦略、1890年)、『Das Leben des Feldmarschalls Grafen Neithardt von Gneisenau』(元帥伯爵[[アウグスト・フォン・グナイゼナウ|グナイゼナウ]]元帥の生涯、1894年)がある。
 
デルブリュックは現代[[軍事史|軍事史家]]の草分けのひとりである。その研究手法は、古代史料への批判的な検討、[[人口統計学|人口学]]、[[経済学]]など周辺学問の利用による分析の深化、時代間の比較による軍事機構の進歩の追跡というものであった。
15行目:
中世の戦争に関するデルブリュックの説にはもう少し異論が多い。彼は[[騎士]](乗馬して個別に戦う戦士)と[[騎兵]](乗馬して整然と戦う部隊)とを区別し、中世の戦士は個別に戦うだけで、他と協力して戦術的な意義のある部隊を形成できなかったとしている。しかしこの説は後の学者たち、特にVerbruggenから反論を受けている。
 
近世の戦争に関するデルブリュックの説には、[[カール・フォン・クラウゼヴィッツ|クラウゼヴィッツ]]の影響が見られる。彼は戦争において可能な戦略を(限定的な)「消耗戦」(Ermattungsstrategie)と(徹底的な)「撃滅戦」(Niederwerfungsstrategie)の2つに分けた(クラウゼヴィッツは限定戦争と全面戦争に分けた)。そしてどちらを選ぶかは兵力の相対比較のほか、政治的・経済的な制約要因によるとした。彼はこの分析手法をフリードリヒ大王の諸戦争にあてはめ、フリードリヒのプロイセンは兵力の劣勢から、消耗戦(限定戦争)の戦略を取ったと結論した。しかしこの時代の戦争に対する検討では[[スペイン]]の諸戦争をまったく扱っておらず、この点で不満が残るものである。
 
デルブリュックはまた、[[第一次世界大戦]]における自国の戦略に非常に批判的であった。ドイツは[[東部戦線 (第一次世界大戦)|東部戦線]]での勝利を目指し、[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]では小さな目標をいくつか取って講和を求めたほうがずっとよかったはずだと語った。これはデルブリュックがかねて述べていた、軍事的な動きと政治的な動きとを統合すべきだという一般原則の実例である。