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その後、日本球界入りの意向を表明。[[読売ジャイアンツ|巨人]]との争奪戦の末、1995年オフに[[中日ドラゴンズ]]に入団。{{by|1996年}}4月5日の[[広島東洋カープ|広島]]との開幕戦で1点リードの9回裏に来日初登板を果たすが、[[ルイス・ロペス (1964年生の内野手)|ルイス・ロペス]]に同点打を浴び、いきなり[[セーブ]]失敗。4月16日の対巨人戦では3点リードの8回裏に登板するも、3番・[[シェーン・マック]]と5番・[[落合博満]]に本塁打を浴びてセーブ失敗(但し、直後の9回表に打線が勝ち越したために来日初勝利をあげている)。このように、母国でのスタイルを貫いてムキに力で抑えようとして痛打され1年目は開幕からの不調が続いたことに加え、シーズン直前に母親が急逝したこともあって不本意な結果となった。
 
しかし、オフ返上など背水の陣で臨んだ2年目の{{by|1997年}}に大変身。[[1997年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|同年のオールスターゲーム]]に出場。同年は当時の日本記録となる38セーブを挙げ、[[佐々木主浩]]([[横浜ベイスターズ|横浜]])と共に[[最多セーブ投手]]<ref>当時は最多[[セーブポイント]]数で最優秀救援投手を表彰していたため、タイトル獲得は佐々木(41SP)のみ。</ref>に輝く。同年に宣が記録した38セーブの1個目は、横浜との開幕戦で、[[ナゴヤドーム]]初の公式戦。ナゴヤドームで初めてセーブを記録した投手である。
 
{{by|1999年}}、この年も抑えの切り札として28セーブを挙げ中日の11年ぶりのリーグ優勝に貢献したが、シーズン中盤の6月に3連続で救援失敗をするなど安定感が薄らいだ事などから、この年のシーズン限りでの現役引退を表明。引退会見では6月の時点で引退を申し入れたものの、当時の監督であった[[星野仙一]]から慰留されていたことや、選手兼任コーチとして契約するという球団側の提案も打診されたが固辞したことも明らかにしており、「それを乗り越えて優勝に貢献できたが、この辺でやめた方がファンにいいイメージを残したまま選手生活を終えられると決意した」と語っている。中日のリーグ優勝の際に胴上げ投手となり、[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]との[[1999年の日本シリーズ|日本シリーズ]]第4戦でも登板するなど、華々しい引退となった。その後の[[ボストン・レッドソックス]]からの入団要請は辞退した。