「フョードル・アプラクシン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m ボット: 言語間リンク 18 件をウィキデータ上の (d:Q312109 に転記)
編集の要約なし
3行目:
 
== 生涯 ==
フョードル・アプラクシンは、陸軍士官として軍歴を開始した。後のピョートル1世皇太子時代から側近として用いられた<ref name="aoki265">青木(1982年)、265頁。</ref>。
 
ピョートル1世が[[1693年]]に海軍の創設に着手するとアプラクシンは海軍に転籍し、[[ゲネラル・アドミラル]]([[:en:General Admiral]])の称号を与えられた海軍最高指揮官となった。アプラクシンは、海軍建設に熱心な主君の意を体して、忠実に職務に取り組んだ。草創期のロシア海軍では高級[[士官]]や幹部技術者として多数の外国人を雇い入れていたが、アプラクシンはこれらの外国人をうまく統率した。その功績は、ロシア海軍の創設と発展の第一功労者と評される<ref name="aoki265" />。
 
[[1700年]]に勃発した[[大北方戦争]]では、[[1705年]]に創設されたばかりの[[バルチック艦隊|バルト海艦隊]]を率いて、優勢な[[スウェーデン海軍]]と戦った。[[1714年]]の[[ハンゲの海戦]](ロシア側呼称:ガングートの海戦)では、艦隊指揮官として[[ガレー船]]同士の戦闘でスウェーデン艦隊に決定的な勝利を収めた<ref>青木(1982年)、263頁。</ref>。[[バルト海]]一帯での海上作戦をピョートル1世本人とともに指揮し、[[ヴィボルグ]]や[[フィンランド]]、[[エストニア]]などの占領を成功させた<ref name="aoki265" />。[[1722年]]の[[ロシア・ペルシャ戦争 (1722–23)|ロシア・ペルシャ戦争]]でも[[カスピ小艦隊]]を率いて参戦した
 
== 人物 ==