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'''アクバル2世'''('''Akbar II''', [[1760年]][[4月22日]] - [[1837年]][[9月28日]])は、[[北インド]]、[[ムガル帝国]]の第16代君主(在位:[[1806年]] - 1837年)。'''アクバル・シャー2世'''(Akbar Shah II)ともよばれる。第15代君主[[シャー・アーラム2世]]の三男母は[[クードシヤ・ベーグム]]。
 
==生涯==
===即位以前と即位===
[[File: Shah Alam II, the blind Mughal Emperor, seated on a golden throne in Delhi.jpg|thumb|left |200px|[[シャー・アーラム2世]](中央)とアクバル(右)]]
[[1760年]][[4月22日]]、アクバル2世ことミールザー・アクバルは、[[ムガル帝国]]の皇帝[[シャー・アーラム2世]]とその妃[[クードシヤ・ベーグム]]の息子として、[[リーワー]]の[[マカンプル]]で生まれた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.265</ref><ref name=Delhi19>[http://www.royalark.net/India4/delhi19.htm Delhi 19]</ref>。
 
当時皇帝だったシャー・アーラム2世には、2人の年長の息子[[ミールザー・ジャワン・バフト (シャー・アーラム2世の皇子)| ミールザー・ジャワン・バフト]]、[[ミールザー・ファルフンダ・バフト]]がいたが、[[1781年]][[5月2日]]にアクバルが[[皇太子]]となった<ref name=Delhi19/>。これは[[イギリス東インド会社]]にも認められた<ref name=Delhi19/>。
 
父帝シャー・アーラム2世の治世はムガル帝国の衰退期であり、父はその衰運の流れを変えようと奮闘したがすべて徒労に終わり、帝国は[[マラーター]]の[[シンディア家]]のもと存続していた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.261</ref>。
 
[[1788年]][[7月]]から[[10月]]にかけては、[[アフガン系]][[ローヒラー族]]の族長[[グラーム・カーディル・ハーン]]に首都[[デリー]]を占領され、不運にも父や弟の[[ミールザー・スライマーン・シコー]]、[[ミールザー・アフサーン・バフト]]とともに盲目にされてしまう<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.262</ref>。
 
また、マラーターの保護下にあったことで、[[1803年]][[8月]]に勃発した[[第二次マラーター戦争]]にも巻き込まれ、[[9月]]にはデリーはイギリスの保護下に入った([[デリーの戦い(1803年) |デリーの戦い]])<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.263</ref>。このとき、ミールザー・アクバルはイギリスの司令官[[ジェラルド・レイク]]を[[デリー城]]へと招き入れた<ref>ガードナー『イギリス東インド会社』、p.200</ref>。
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===イギリスの侵略活動とラーム・モーハン・ローイの派遣===
[[File:TheAkbar Delhi DarbarII of Akbar IIDelhi.jpg |right|thumb|アクバル2世と廷臣]]
その一方、イギリスはインドの植民活動を進め、[[1817年]][[11月]]から[[1818年]][[6月]]にかけては、[[第三次マラーター戦争]]でマラーター同盟に勝利し、[[デカン]]の広大な領域を制圧するところとなり、インドの植民地化は急速に進んだ。
 
また、[[19世紀]]以降、イギリス東インド会社は彼らがインドにおいて発行している硬貨を[[ペルシア語]]から[[英語]]に書き換え、皇帝の名も刻まなくなった。
 
そのうえ、イギリスはムガル帝国の権威を弱めるため、[[アワド太守]]と[[ニザーム]]に帝国から正式に独立するよう促し(どちらも事実上独立しただけであった)、その結果アワドは[[1818年]]に帝国から正式に独立してしまった。
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こうして、アクバル2世の治世はイギリスが全土を侵略するなか、その保護によってもたらされる平和を享受する形となった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.266</ref>。
 
アクバル2世はその治世、宮廷儀礼とデリーをねり歩く大行列に精を出し、おもな政務はイギリスの死刑判決を確認する程度だった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.266</ref>。イギリスの植民地行政官[[トーマス・メトカフ]]は、アクバル2世についてこう語っている<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.266より引用、一部改編</ref>。
 
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このように安定した情勢のなか、[[1837年]][[9月28日]]に皇帝アクバル2世は帝都[[デリー]]で死亡した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.266</ref><ref name=Delhi19/>。
アクバル2世の死後、息子のミールザー・アブー・ザファルが[[バハードゥル・シャー2世]]として新たな皇帝となった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.267</ref><ref name=Delhi19/>。
 
==人物・評価==
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しかし、アクバル2世がラーム・モーハン・ローイの活動に目をつけ、イギリスに派遣したことに関しては彼の評価すべき点の一つである<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.266</ref>。また、アクバル2世にはその心優しさをあらわしているエピソードがある<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.266</ref>。
 
のちにインドの[[イスラーム教徒]]の代表的存在となる[[サイイド・アフマド・ハーン]]は少年時代にムガル帝国の宮廷に出仕しており、あるとき[[御前会議]]のときに寝坊してしまったのだという<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.266</ref>。だが、アクバル2世は笑みを浮かべ、「これからは早く起きるように」と言い、彼を許したのだという<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.266</ref>。
 
サイイド・アフマド・ハーンはのちに、「陛下が私にやさしい態度を取られたので、宮廷中の人々が父に祝いの言葉をかけた」、と語っている<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.266</ref>。
 
==ギャラリー==
{{Gallery| align = center
| width = 200 | lines=3
|File:Circle of Ghulam Ali Khan Portrait painting of Akbar II ca 1827 ROM.jpg|アクバル2世
|File:Ghulam Murtaza Khan The Delhi Darbar of Akbar II.jpg|アクバル2世と廷臣
|File:The Delhi Darbar of Akbar II.jpg|
|File:Maharaja Ranjit Singh Sikh Court.JPG|アクバル2世と[[ランジート・シング]]
|File:Akbar II with his son Mirza Salim Shah on an elephant.jpg|アクバル2世と皇子[[ミールザー・サリーム・シャー]]
|File: A ROYAL PROCESSION OF AKBAR II.jpg|アクバル2世の行列
|File:Akbar II in all his glory,.jpg |
|File:Watercolour painting on paper of a procession of a prince.jpg|皇子たちの行列
|File:Recent photograph of the tombs of the Mughal Emperors Shah Alam II and Akbar Shah II.jpg|アクバル2世と父シャー・アーラム2世の墓廟
}}
 
==家族==
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*[[シャーハーバーディー・ベーグム]]
*アンワール・マハル
など多数の妃<ref name=Delhi19/>。
 
===息子===
127 ⟶ 142行目:
*[[ミールザー・ナズィーム・シャー]]
*ミールザー・フッラム・バフト
計14人の息子<ref name=Delhi19/>。
 
===娘===
8人<ref name=Delhi19/>。
8人
 
==脚注==
143 ⟶ 159行目:
*[[ムガル帝国]]
 
{{ムガル帝国皇帝|||[[ムガル帝国]]第16代皇帝:1806年 - 1837年}}
{{DEFAULTSORT:あくはる2}}
[[Category:ムガル帝国の君主]]
[[Category:インドの詩人]]
[[Category:1760年生]]
[[Category:1837年没]]