「ブハラ・ユダヤ人」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
5行目:
== 背景 ==
ブハラ・ユダヤ人の間では伝統的に、自らの祖先を[[イスラエルの失われた10支族]]に結びつけ、[[紀元前6世紀]]の[[バビロン捕囚]]からの解放以後、[[カナン]]の地に戻らなかった支族であるとしている。<ref name=joanroth>[http://www.joanroth.com/bukhara.html Joan Roth Photography: Bukhara<!-- Bot generated title -->] from joanroth.com</ref>
[[ImageFile:Bukharan girlJewish_Children_with_their_Teacher_in_Samarkand.jpg|thumb|left|200px250px|ブハラ・ユダヤ人の少女, 1900教師と子どもたち(1910、[[サマルカンド]])]]
中央アジアのブハラ・ユダヤ人は、他の[[ディアスポラ]]のユダヤ人社会とは、2,000年以上にわたって隔絶されてきたが、ユダヤ人のアイデンティティや伝統はどうにか保ってきた。ブハラ・ユダヤ人は中央アジアにおける最も古い「種族宗教的(ethno-religious)」な集団の1つで、独自の文化を育んできた。[[イラン]]、[[イラク]]、[[イエメン]]、[[シリア]]、[[モロッコ]]にいたユダヤ人も主に[[シルクロード]]を通って中央アジアに移り住み、後に彼らもブハラ・ユダヤ人と総称された。ブハラ・ユダヤ人の多くは[[ブハラ・ハン国|ブハラ・アミール国]]であった現在の[[ウズベキスタン]]・[[タジキスタン]]に住み、少数は[[ロシア]]や[[カザフスタン]]、[[アフガニスタン]]、[[トルクメニスタン]]、[[パキスタン]]、[[キルギス]]にも住んだ。[[ブハラ・ハン国|ブハラ・アミール国]]の中でも、今日の[[タシュケント]]、[[サマルカンド]]、[[ブハラ]]、[[コーカンド]]、[[ドゥシャンベ]]に特にブハラ・ユダヤ人は集中して居住した。[[インド]]と[[パキスタン]]が[[印パ分離独立|分離]]する以前は、[[ペシャーワル]]で[[パシュトゥーン人]]社会に混ざってブハラ・ユダヤ人も生活していた。パキスタン分離とイスラエル建国で、ほぼ全てのユダヤ人がペシャーワルを去ってイスラエルなどに移住した。ペシャーワルには今も1つの[[シナゴーグ]]が現存しているが、[[カラチ]]では2つのシナゴーグは[[イスラム教]]の施設に改装された。