「小場義成」の版間の差分

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| 藩 = [[出羽国]][[久保田藩]][[大館城|大館]]所預
| 氏族 = [[佐竹氏|佐竹西家]]
| 父母 = 父:[[小場義宗]](義家)、母:[[小場義忠]]の娘
| 兄弟 = '''義成'''、[[石塚義辰]]、''[[小場宣忠|宣忠]]'' ([[渋江政光]]の実弟)
| 妻 = 正室:'''[[佐竹義久]]の養女'''(大塚信濃の娘)
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== 生涯 ==
父義宗(義家)は[[佐竹義昭]]の三男で、義忠の婿養子となった。[[慶長]]5年([[1600年]])、主君[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]に常陸[[小田城]]を与えられ、5万石を給される。慶長7年([[1602年]])、佐竹家が秋田に転封となると、東家の[[佐竹義賢]](義成の義父・[[佐竹義久]]の子)と共に先乗りし、[[檜山城]]を守る。慶長8年([[1603年]])、領内で[[浅利氏]]の残党が蜂起するとそれを鎮める。慶長15年([[1610年]])[[南部氏]]、[[津軽氏]]への抑えとして[[大館城]]を任され、知行5000石を給される。慶長19年([[1614年]])、[[大坂の陣|大坂冬の陣]]に参戦する。
 
[[元和 (日本)|元和]]8年([[1622年]])、[[最上義俊]]が[[改易]]となり、幕命により[[本荘城]]、[[滝沢城]]の受け取りの任を務める。寛永6年([[1629年]])2月、佐竹家が[[江戸城]][[神田橋]]の石垣普請を命じられると、その監督を務める。工事の完成後、江戸城で[[征夷大将軍|将軍]][[徳川秀忠]]に拝謁して、時服と虎皮投鞘の槍を賜る。寛永11年(1634年)10月27日没。享年66。