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[[ファイル:Pm-map.png|thumb|250px|right|パナマ地峡]]
'''パナマ地峡'''(パナマちきょう、{{lang-es-short|Istmo de Panamá}}、{{lang-en-short|Isthmus of Panama}})は、[[中央アメリカ]]の[[カリブ海]]と[[太平洋]]との間、[[パナマ]]中部にあり、南北両[[アメリカ大陸]]を結ぶ帯状の[[地峡]]。およそ300万年前の[[鮮新世]]に形成されことで、[[アメリカ大陸間大交差]]を起こした。[[パナマ共和国]]や[[パナマ運河]]がある狭い陸地で、幅はわずか64キロメートル。最狭部はサンブラス地峡。他の多くの地峡と同様、戦略的に重要なポイントである。
 
== 歴史 ==
[[バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア]]がカリブ海の海沿沿いを航行している時に、原住民からより「南の海」(太平洋)の話を聞いたことから、[[1513年]][[9月25日]]、彼は太平洋を発見した。[[1519年]]、太平洋沿いの小規模な原住民の居住区の近くに、[[パナマ市|パナマ]]の町が創設された。ペルー発見の後、町は重要な貿易港として発展し、地域の行政上の中心地となった。[[1671年]]、[[ウェールズ]]人の海賊[[ヘンリー・モーガン]]が[[カリブ海]]からパナマ地峡を横断して来て、パナマの町を破壊した。その結果、町は西に数キロ離れた小さな半島上に移転した。パナマの旧市街である''Panama la Vieja''地区の遺跡は、近年[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録された。
 
ペルー[[副王]]領の金、銀が地峡を横断して[[ポルトベロ]]に輸送され、そこで[[インディアス艦隊]]に積み込まれ、スペイン本土の[[セビリア]]および1707年からは[[カディス]]にも運ばれた。
 
1680年から1684年の間、ライオネル・ウェハ (Lionel Wafer) 原住民の[[クナ族]] (Cuna) と生活を共にした。
 
1698年、[[スコットランド]]が[[ダリエン計画]] (Darien scheme) により、居住区の建設を試みた。
 
1849年に始まった[[カリフォルニア]]の[[ゴールドラッシュ]]で、大西洋から太平洋に向かう人の数が増した。アメリカ東部の港から金を捜し求める人を乗せた[[蒸気船]]がやって来て、初期には徒歩や馬で、後には[[パナマ地峡鉄道]]で地峡を渡った。太平洋側に到着すると、彼らは[[パシフィック・メル社]] (Pacific Mail Steamship Company) の船に乗り込み、[[サン・フランシスコ]]へと向かった。
 
1880年、[[スエズ運河]]を建設した[[フェルディナン・ド・レセップス]]が、1880年パナマ運河会社 (Panama Canal Company) を立ち上げたが、1889年に破綻し、[[パナマ運河疑獄]]事件へと発展した。
 
== 関連項目 ==