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{{Otheruses|マケドニアの将軍ペルディッカス}}
 
'''ペルディッカス'''([[ギリシア語|希]]:{{lang|el|'''ΠερδίκκαςΠερδ?κκα?'''}}、ラテン文字転記:Perdiccas、? - [[紀元前321年]]または[[紀元前320年]])は[[アレクサンドロス3世]]に仕えた[[マケドニア王国]]の将軍であり、[[ディアドコイ]]の一人である。ペルディッカスは[[オレスティス]]のマケドニア貴族[[オロンテス]]の子で、弟には[[アルケタス (オロンテスの子)|アルケタス]]がいる<ref>アッリアノス, IV. 27-28</ref>。
 
== アレクサンドロスの下で ==
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ペルディッカスはアレクサンドロスの東征に参加し、[[グラニコス川の戦い]]、[[イッソスの戦い]]、[[ガウガメラの戦い]]といった主要な会戦で[[重装歩兵部隊]]を指揮した<ref>ibid, I. 24, II. 8, III. 11</ref>。クレイタルコス系資料によればペルディッカスはガウガメラの戦いで[[コイノス]]、[[メニダス]]と共に瀕死の重傷を負った<ref>Curt.,Ⅳ.16.32.cf.Diod.,ⅩⅦ.61.3</ref>
 
またソグディアナではアレクサンドロスが敵に備えて軍を五つの部隊に分け、ペルディッカスは第三部隊の指揮をした。パレイタカイでは岩砦攻略の為の工事をペルディッカスは、[[レオンナトス]]、プトレマイオスと共に監督をし、[[インド]]では、ペルディッカスは[[ヘファイスティオン]]と共に[[ゴルギアス]]、[[白のクレイトス]]、[[メレアグロス]]麾下の各歩兵全部隊、それに[[ヘタイロイ]]騎兵隊の半数および傭兵騎兵隊の全部を任され、タクシレスとその他の首長たちも同行して、インドス川に向かってペウケラオティスの地方へと派遣され、アレクサンドロスから進軍の途上にあたる拠点と云う拠点は全て武力により制圧するか、条件を付けて降伏させ制圧支配下におくようにとの指示と、インドス河畔に到着したら、渡河に役立つ物や必要な物を準備しておくようにと指示を受け、インドス川付近に到着すると、ペルディッカスとヘファイスティオンは[[オロバティス]]という町を固めてから、守備隊を残してインドス川へと向かい、河畔に到着すると早速インドス川を舟橋で繋ぎアレクサンドロスからの指示を果たす作業に取り掛かり、アレクサンドロスと合流するまでにペルディッカス、ヘファイスティオンの部隊は多数の小船と二隻の三十人橈船を用意し、[[タクシレスのオンピス]]<ref>Curt.,idid.</ref>から糧沫を受け取った。ペルディッカスは王の信頼篤い重臣の一人でもあった<ref>ibid, IV. 16, 22, VI. 9</ref>。紀元前326年の[[ヒュダスペス川の戦い]]ではペルディッカスは騎兵の一隊を率い<ref>ibid, V. 12</ref>。カタイオイ人との戦いではペルディッカスは自らの騎兵隊と[[アステタイロイ部隊]]を率いた。サンガラ攻略後は、その一帯劫掠の為に、アレクサンドロスはペルディッカスに軽装の部隊をつけて派遣し、同時に[[エウメネス]]も軍の一部を以て抵抗勢力の制圧に向かわせた。<ref>Curt.,Ⅸ.1.19.cf.Plut.,Eum.,1.2</ref>
紀元前325年のマッロイ人との戦いではペルディッカスは指揮下の騎兵隊と[[クレイトス]]の騎兵隊およびアグリアネス人部隊を付け、現地のインド人が逃げ込んでいる別の[[マッロイ人]]の町に分遣され、アレクサンドロスはペルディッカスに市内の者達を監視するよう、ただしアレクサンドロスが傍まで迫っている事を、町から脱出した住民の一部が他の原住民に伝達しないようにせよと、指示されたペルディッカスが町に着くと、住民が全て逃亡した事を知るが、住民たちがまだ町からそれほど離れていない場所までしか逃げていない事が分かったので、逃げる住民の後を騎兵で追い、逃れきれなかった相手を殲滅した。<ref>10.^ ibid, VI. 6</ref>町に立て籠ったマッロイ人達との最大の戦いでは、ペルディッカスはアレクサンドロスが二手に分けた軍勢の片方を任され、ペルディッカスが指揮する部隊の多くは梯子を持ってこなかったので、町を囲む壁を崩すなどして市内への突入を試みた。そして先に市内へ突入していたアレクサンドロスが敵の矢に射掛けられ瀕死の重傷を負った際、一説にはペルディッカスがアレクサンドロスの体内に入り込んだ鏃を取り出す為に、自分の剣で傷口を切開たとも伝えられる。アレクサンドロスが負傷後、ペルディッカスは[[アバスタイ人]]を従える為に派遣され、[[アケネシス]]、[[ヒュドラオルテス]]両河の合流点近くに設営された船団が配備された基地にてアレクサンドロスは、ペルディッカスが任務を終えて帰還するまで待った。紀元前324年にヘファイスティオンが病死した際にはアレクサンドロスからヘファイスティオンの遺体を託されバビュロンにて葬儀を上げた<ref>Diod.,ⅩⅦ.110.8</ref>後、ヘタイロイの指揮官の地位を引き継ぎ、同時に[[千人隊長]]の任に就いた。また、同年スサにて開催された集団結婚式で、ペルディッカスは[[メディア]][[太守]]で[[ペルシア]]貴族の[[アトロパテスの娘]]を娶った<ref>ibid, VII. 4</ref>。
== アレクサンドロスの死後 ==
ペルディッカスは臨終のアレクサンドロスによって印綬の指輪を渡され<ref>ユスティヌス, XII. 15</ref>、(ユニティヌスは、これを「暗黙の」後継者指名だったと記し<ref>Justin.,Ⅶ.15.13</ref>アッリアノスではこの経緯が脱落欠損している)王の死後に開かれたバビロン会議では主導権を握り、王の遺児でまだ生まれぬロクサネの子(後のアレクサンドロス4世)の暫定的な後見人、摂政となり、帝国の実質的なトップの座に就いた<ref>ディオドロス, XVIII. 3</ref><ref>ユスティヌス, XIII. 2</ref>。その際、ペルディッカスはアレクサンドロスの異母兄弟の[[アリダイオス]]を推す歩兵とそれに迎合した武将メレアグロスとの騒動で一時は殺されそうになった<ref>ibid, XIII. 3</ref>。騎兵と他の諸将の支持を得たペルディッカスは歩兵たちを演説によって説得して和解し、アリダイオスを王として[[ロクサネ]]の子が男子ならその共同統治者とし、共にロクサネの子の後見人になることにしてメレアグロスとも妥協し、難なきを得た<ref>ibid, XIII. 4</ref>。しかし、その直後に神殿に逃げ込んだメレアグロスを殺害し、ライバルを減らした。
その後、ペルディッカスはバビロン会議で未だ征服されぬ[[カッパドキア]]を割り当てられた盟友エウメネスのためにカッパドキアへと遠征し、同地の王[[アリアラテス1世]]を滅ぼした。また、自らの勢力の安定化のため、重臣[[アンティパトロス]]との連携を目論み、彼の娘[[ニカイア]]との結婚を申し出たが、ペルディッカスを自分の側に引き入れようと考えたアレクサンドロス3世の母[[オリュンピアス]]は、自分の娘[[クレオパトラ]]との結婚を勧めた。そこでペルディッカスは一旦アンティパトロスの娘と結婚し、すぐ離婚してクレオパトラと結婚しようとした。アンティパトロスはそれに怒り、彼に警戒心を抱いていた[[クラテロス]]、プトレマイオス、[[アンティゴノス]]らの諸将と共に対ペルディッカス同盟を結び、戦争の運びとなった<ref>ibid, XIII. 6</ref>。
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== 逸話、エピソード ==
アッリアノスは『ギリシア奇談集』において「マケドニア人ペルディッカスは、アレクサンドロスの遠征従っ仕え将軍であるが、すこぶる非常に豪胆で、ある時などは牝のライオンが巣にしている洞窟に単身で入っていった。彼はライオンに気が付かなかったのであるが、ライオンは仔を連れて出ていってしまった。ペルディッカスはこのことの為に皆の者からその豪胆さを讃嘆されたようである。」と記述している。<ref>アッリアノスⅩⅡ.,39</ref>
== 註 ==
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