「正倉院」の版間の差分
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{{Otheruses|[[東大寺]]の正倉院|一般的な正倉院|正倉}}
[[ファイル:Shoso-in.jpg|thumb|300px|正倉院正倉]]
{{参照方法|date=2014年4月6日 (日) 08:15 (UTC)}}
'''正倉院'''(しょうそういん)は、[[奈良県]][[奈良市]]の
== 解説 ==
元は[[東大寺]]の[[正倉]]([[倉庫
正倉院の宝物には日本製品、[[中国]]([[唐]])や[[西域]]、遠くは [[ペルシア|ペルシャ]]などからの[[輸入]]品を含めた[[絵画]]・[[筆跡|書跡]]・金工・[[漆工]]・[[木工]]・[[刀剣]]・[[陶磁器|陶器]]・[[ガラス工芸|ガラス器]]・[[楽器]]・[[仮面]]など、古代の美術工芸の粋を集めた作品が多く残るほか、[[奈良時代]]の日本を知るうえで貴重な[[史料]]である[[正倉院文書]]
== 正倉院の語義 ==
== 正倉院宝物 ==
[[ファイル:Kokka Chinpoh Choh Shosoin.JPG|thumb|200px|right|<small>献物帳 国家珍宝帳 冒頭</small>]]
[[756年]]([[天平勝宝]]8歳)[[6月21日 (旧暦)|6月21日]]、光明皇太后は夫である聖武太上天皇の七七忌に際して、天皇遺愛の品約650点
正倉院宝庫は、北倉(ほくそう)、中倉(ちゅうそう)、南倉(なんそう)に区分される。
北倉は主に
「献物帳」記載の品がそのまま現存しているわけではなく、武器類、薬物、書巻、楽器などは必要に応じて出蔵され、そのまま戻らなかった品も多い。刀剣類などは[[藤原仲麻呂の乱|藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)]]の際に大量に持ち出され、「献物帳」記載の品とは別の刀剣が代わりに返納されている。また[[大仏開眼]]の際に[[聖武天皇]]・[[光明皇后]]が着用した冠など、何らかの事情で破損した宝物も存在するが、その破片が所蔵されている場合もある(礼服御冠残欠などの残欠)<ref>由水 1996</ref>。また、一部の唐櫃は鎌倉時代、江戸時代のものであり、宝物の中にも後世に追納されたものが多いという説がある<ref>由水 1996</ref>。
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== 正倉院文書 ==
'''正倉院文書'''(しょうそういんもんじょ)は、正倉院に保管されてきた文書群で、光明皇后の[[皇后宮職]]から[[正倉院文書#東大寺写経所|東大寺写経所]]に至る一連の写経所で作成された文書を中心とする。
== 聖語蔵 ==
正倉院の構内にはもう1棟、小型の校倉造倉庫が建ち、「聖語蔵」(しょうごぞう)
正倉院聖語蔵経巻全巻のアーカイブ化プロジェクトも進められている<ref> [http://www.fujifilm.co.jp/corporate/environment/socialcontribution/shosoin/ 正倉院聖語蔵経巻アーカイブ ] 富士フイルムと丸善による。</ref>
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校倉造、屋根は寄棟造、瓦葺。規模は正面約33.1メートル、奥行約9.3[[メートル]]、床下の柱の高さ約2.5メートルである。
建立時期は不明だが、光明皇后が夫聖武天皇の遺愛の品を大仏に奉献した[[756年]](天平勝宝
床下には10列×4列の柱を建て、その上に台輪(だいわ)と呼ぶ水平材を置く。この上に北倉と南倉は校木(あぜぎ)という断面三角形の材を20段重ねて壁体をつくり、校倉造とする。ただし、中倉のみは校倉造ではなく、柱と柱の間に厚板を落とし込んだ「板倉」で、構造が異なる。なぜ、中倉のみ構造が異なるのか、当初からこのような形式であったのかどうかについては、諸説ある。[[奈良時代]]の文書には、正倉院宝庫のことを「双倉」(そうそう、ならびくら)と称しているものがある。このことから、元来の正倉院は北側と南側の校倉部分のみが倉庫で、中倉にあたる中間部は、壁もなく床板も張らない吹き放しであったため「双倉」と呼ばれたとするのが通説だったが、年輪年代法を用いた鑑定により、当初より現在の形であった事が判明している<ref>[http://shosoin.kunaicho.go.jp/public/pdf/0000000060.pdf 光谷拓実 年輪年代法による正倉院正倉の建築部材の調査(宮内庁)]</ref>。
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毎年多くの見学者を集めているが、観覧者数が特に伸びたのは2001年(平成13年)以降である。2001年(平成13年)から主催機関である奈良国立博物館の[[独立行政法人]]化を契機に、外部から協力<ref>展覧会の「協力」とは、一般に開催する展覧会を成功させるため、広報や技術提供、観覧者満足度の向上などの側面において主催者の支援を行うこと。通常「協力」主体は、直接の資金援助は行わず、反対に観覧収入などから見返りも受けない。</ref>を受ける開催方式となる。最初の4年間は[[朝日新聞社]]がその役割を担い、観覧者も前年より5万人ほど増加した。しかし、その後は低減し、独法化前と大差のない13〜14万台に戻る。2005年(平成17年)の第57回から協力主体が[[読売新聞社]]に移ると、読売関係各社を動員し、それまでにない多彩で大規模なメディア展開を実行する。近年の観覧者急増には、正倉院展自体に集中的に言及するメディア体制の出現が背景にあると言える<ref>小川伸彦 「正倉院展へのメディア展開 --二○○五年秋の「事件」を読む」『美術フォーラム21』 vol.14、醍醐書房、2006年(平成18年)4月号、ISBN 978-4-925185-24-0。</ref>。
== 脚注 ==▼
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== 参考文献 ==
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* 安藤更生 正倉院小史(明和書院 1947年)
* 小野玄妙 御物正倉院聖語蔵の古寫経を拝観して 1929 正倉院史論(寧楽12号)に収録
▲== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
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