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[[朱鳥]]元年([[686年]])7月には重態に陥った天武天皇から母と共に大権を委任され、9月には天武天皇が崩御する。翌月には謀反の罪で大津皇子が処刑される。だが、鸕野讃良皇后は皇子を直ちに即位させる事はしなかった。皇子の若さと大津皇子処刑に対する宮廷内の反感が皇子の即位の障害となったものと思われる。
 
なお、少数説であるが、草壁皇子の立太子そのものを軽皇子(文武天皇)の即位を正当化するために後世作為されたもので、鸕野讃良皇后が草壁皇子に天武天皇の殯宮の喪主を務めさせることで、初めてその後継者であることを内外に明らかにしたとする説もある<ref>本間満「草壁皇子の元服立太子について」(初出:『昭和薬科大学紀要』33号(1999年)・所収:本間『日本古代皇太子制度の研究』(雄山閣、2014年) ISBN 978-4-639-02294-7)</ref>(なお、天武天皇の殯の終了は草壁持統天子の2年([[薨去688年]]の3か)11のことである)。
 
皇位に就くことなく持統天皇3年(689年)4月13日[[薨去]]。[[淳仁天皇]]即位後の[[天平宝字]]2年([[758年]])に'''岡宮御宇天皇'''の称号が贈られた。『[[万葉集]]』に[[石川内命婦|石川郎女]]に贈った歌が一首残されている。陵は、奈良県高市郡高取町の眞弓丘陵である。
 
== 血縁 ==