「細川氏綱」の版間の差分

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父の従兄弟であった[[細川高国]]の養子となる。天敵であった[[細川晴元]]の反撃を阻めず敗死した養父と、その晴元方に転じて生き残りを模索しながら殺害された実父、2人の仇を討つべく晴元打倒の機を窺い続けた。
 
高国の弟である[[細川晴国]]とは年齢が近く、高国嫡子の[[細川稙国]]の没後は後継者の地位を巡って微妙な関係にあったと思われる。その立場日高国が配慮したためか[[大永(元号)|大永]]6年([[1526]])12月に細川次郎(氏綱)・八郎(晴国)が同時に元服させられている。翌年以降[[和泉国|和泉]]に赴いたと思われ、後の蜂起の際に常に和泉から活動しているのは、こういった縁によるものと思われる。
[[天文 (元号)|天文]]12年([[1543年]])、ようやく復権をめざして、晴元を討つための兵を[[和泉国|和泉]]で挙げる。[[畠山政国]]や[[遊佐長教]]、[[筒井氏]]などの畿内の有力者や、12代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義晴]]の支持を得たものの、当初は晴元の強大な力の前に圧倒的に不利であった。
また[[法華一揆|天文法華の乱]]に際し晴国が反晴元の兵を起こした際に、晴国より3歳年上で十分主体的な行動が可能であったはずの氏綱が何も動きを見せていないのは、高国の後継者を巡る微妙な関係が影響していたのではないかと推測されている。
 
[[天文 (元号)|天文]]127年([[15431538年]])、ようやく復権をになり初ざして、細川上野玄蕃家の[[細川国慶]]と共に晴元を討つための兵を[[和泉国|和泉]]で挙げる。以降も断続的に蜂起をしているが、これは[[畠山政国稙長]]や[[遊佐長教]]、[[筒井氏]]などの畿内の有力者や、12代山陰の[[征夷大将軍|将軍]][[足利義尼子]]の支持もこれに連携して上洛図らんとする広範囲に渡っものの軍事行動だったが、当初は晴元の強大な力の前に圧倒的に不利であった。
ところが、[[三好政長]](宗三)の処遇を巡って主君と仲違いした晴元軍の中核・[[三好長慶]]の氏綱側への転属が決め手となり形勢は一変([[江口の戦い]])。天文18年([[1549年]])、遂に晴元を[[近江国|近江]]へと追放することに成功した。
 
しかし天文15年([[1546年]])に[[三好長慶]]を堺に遊佐長教・[[筒井順昭]]らと共に囲み越水城に撤退させ、その間に細川国慶が京を制圧し晴元らを堺に敗走させ、更に12代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義晴]]の支持を獲得するまで晴元を追い詰めたものの、[[舎利寺の戦い]]などで晴元方の反撃を受け、京を占拠していや国慶も戦死したため失敗に終わる。
天文21年([[1552年]])には長慶と共に上洛し、[[管領]]に任じられた氏綱だったが、長慶の傀儡でしかなく、実権は全く無かった。そして[[山城国|山城]][[淀古城|淀城]]に長慶の監視付きで居城を与えられた氏綱は、永禄6年12月20日(1564年1月4日)に失意のうちに死去した。その後、後任の管領が任じられることはなかった。
 
ところが、[[三好政長]](宗三)の処遇を巡って主君と仲違いした晴元軍の中核・[[三好長慶]]の氏綱側への転属が決め手となり形勢は一変([[江口の戦い]])。天文18年([[1549年]])、遂に晴元を[[近江国|近江]]へと追放することに成功した。天文21年([[1552年]])には長慶と共に上洛し、[[右京大夫]]に任じられ、細川京兆家の家督となる
永禄6年12月20日(1564年1月4日)に[[山城国|山城]][[淀古城|淀城]]で没。
 
一般的に長慶の傀儡でしかなく、実権は全く無かったと認識される氏綱だが、近年の研究では上洛当初は[[東寺]]などの寺社が長慶のみならず氏綱からの書状を求めていたことや、[[内藤国貞]]の戦死後の[[松永長頼]]の家督譲渡の承認など丹波支配において複数の書状を出していること、[[永禄 (元号)|永禄]]段階までは長慶は形式上とはいえ儀礼の場で氏綱を主君として立てていること、
従来は三好長慶の被官として京支配に関わったと思われていた[[今村慶満]]・[[小泉秀清]]らは細川国慶に抜擢された被官であり、国慶の死後は主君である氏綱の被官にスライドしたと思われることなど、少なくとも天文年間においては畿内においてある程度の影響力を持っていたと思われ、「傀儡」という言葉で一括りにしてしまうことに疑問が呈されている。
 
== 参考文献 ==
* [[天野忠幸]]『戦国期三好政権の研究』[[清文堂出版]]、2010
* [[下川雅弘]]『三好長慶の上洛と細川氏綱』(『三好長慶』[[宮帯出版社]]、2013年。ISBN 978-4-86366-902-4)
* [[小谷利明]]『畠山稙長の動向』(『戦国期の権力と文書』[[高志書院]]、2004年)
* [[岡田謙一]]『細川晴国小考』(『戦国・織豊期の西国社会』[[日本史史料研究会論文集]] 、2012年)
* [[馬部隆弘]]『細川国慶の上洛戦と京都支配』([[日本史研究]] 第623号、2014年7月)
* 馬部隆弘『細川国慶の出自と同族関係』([[史敏]] 9号、2011年10月)
 
== 脚注 ==