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{{ハンガリー人の姓名|ティヤシュ|ラヨシュ}}
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2010年6月}}
* 1937年12月29日 - [[エベレット・マーシャル]]を破り、21歳でMWA世界ヘビー級王者となった(ミズーリ州セントルイス)。1938年1月25日AWAの世界王者認定。当時、[[アリ・ババ]]やエベレット・マーシャルなど、概ねキャリア10年程度、30歳前後で世界王者に就くのが慣例であり<ref>『鉄人ルー・テーズ自伝』, p.106.</ref>、テーズの世界王者奪取は異例の早さであった。しかし1月の防衛戦で耳を負傷し、トレーニングも出来ないまま挑んだ2月11日のスティーブ・ケーシー戦に敗れて王座転落<ref>『鉄人ルー・テーズ自伝』, pp.107-108.</ref>。▼
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* 1939年6月23日または7月19日 - [[テキサス州]][[ヒューストン]]で[[ブロンコ・ナグルスキー]]に敗れNWA王座から陥落。この際に左膝を負傷し、約1年にわたる長期欠場を余儀なくされる。なお左膝は生涯テーズの古傷となり、70歳で右臀部を手術したのも、左膝を庇う行動を長年続けてきたためだと述懐している<ref>『鉄人ルー・テーズ自伝』, pp.122-123.</ref>。▼
* [[1943年]] - [[アメリカ合衆国陸軍]]に入隊、体育教官となった。テキサス州ヒューストン駐屯地で約4年間過ごした。この際もプロレス興行は継続する(当時は興行売り上げの20%が軍費として徴集されるシステムとなっており、軍費獲得のためにも興行は歓迎された)<ref>『鉄人ルー・テーズ自伝』, pp.125-126.</ref>。▼
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* 1947年4月16日 - 同地でボビー・マナゴフを破り、モントリオール版AWA世界ヘビー級王座を獲得。▼
* 1947年11月26日 - 同地で[[ユーボン・ロバート]]に敗れ同王座から陥落。▼
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* 1947年4月25日 - セントルイスで[[ホイッパー・ビリー・ワトソン]]を破り、NWA世界ヘビー級王座を獲得。▼
* 1947年11月21日 - セントルイスで[[ビル・ロンソン]]に敗れNWA世界ヘビー級王座から陥落。▼
[[1946年]]9月11日にカナダ・モントリオールでボビー・マナゴフを破り、モントリオール版AWA世界ヘビー級王座を獲得。[[1947年]]2月20日 同地で[[ボビー・マナゴフ]]に敗れ王座陥落。
* [[1948年]]7月20日 - ビル・ロンソンを破り旧NWA世界ヘビー級第23代王者(NWA通算で第38代王者)となった。連勝記録の始まり。▼
* [[1949年]]11月 - [[NWA (プロレス)|新NWA]]による王座の正当化により、第38代王者(新NWA第2代王者)と認定された。過去獲得したものも第23、26、36代(旧NWAでは8、11、21代)として認定された。▼
* [[1955年]]5月22日 - [[レオ・ノメリーニ]]に反則で敗れ、テーズの連勝記録がとまる。記録は[[引き分け]]をはさんで936連勝。なお、タイトルのほうは反則負けのため王座移動はなし。(テーズ自身は936連勝記録を否定している)▼
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* [[1957年]]10月 - [[日本プロレス]]に初訪日。[[力道山]]とNWA世界ヘビー級選手権で2度にわたり名勝負を繰り広げた。▼
* [[1958年]]6月 - 世界各国を回り積極的に防衛を重ねた実績が認められ、[[NWA (プロレス)|NWA]]本部から[[インターナショナル・ヘビー級王座|インターナショナルヘビー級初代王者]]に認定された。▼
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* [[1966年]]2月28日 - 日本プロレスに特別参加で訪日し、[[ジャイアント馬場]]の持つインターナショナルヘビー級王座に挑戦。結果は馬場が2度目の防衛に成功。テーズから2ピンフォール取っての防衛は馬場の大きな勲章となった。▼
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* [[1968年]]1月 - [[国際プロレス]](当時はTBSプロレス)に訪日し、[[グレート草津]]のTWWA世界王座の挑戦を受けるが、1本目で実力を見破り、バックドロップで草津を失神させる。2本目は棄権、テーズが防衛に成功。草津をスターに仕立てようとする[[TBSテレビ|TBS]]の目論みは失敗に終わった。▼
* [[1973年]]10月14日 - [[新日本プロレス]]に初登場、[[カール・ゴッチ]]と組んで[[アントニオ猪木]]・[[坂口征二]]と「世界最強タッグ戦」を行う。なお、この年テーズ57歳、ゴッチ49歳であり、この年齢で「世界最強タッグ」の看板に説得力を持たせることが出来たあたり、当時のテーズの名声をうかがい知ることが出来る。▼
* [[1975年]]10月9日 - [[新日本プロレス]]に訪日し、[[アントニオ猪木]]の持つNWF世界ヘビー級王座に挑戦する。猪木に[[ブロックバスター (プロレス技) |ブロックバスター・ホールド]]からフォールされ王座獲得はならなかったが、試合開始直後の先制のバックドロップなど健在をみせつけた。▼
* [[1976年]]8月15日 - 前年に旗揚げされた[[ユニバーサル・レスリング・アソシエーション|UWA]]から、初代UWA世界ヘビー級王者に認定された。▼
* [[1981年]]1月 - [[国際プロレス]]で開催された[[ルー・テーズ杯争奪戦]]に特別[[レフェリー (プロレス)|レフェリー]]として来日。試合も行った。▼
* [[1983年]]4月 - [[全日本プロレス]]に訪日し、ルー・テーズ杯決勝戦([[越中詩郎]] vs. [[三沢光晴]])のレフェリーを務めた。全日本にはこの時期数回来日し、[[ジャンボ鶴田]]にバックドロップを伝授している。▼
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* [[1985年]]9月19日 - 新日本プロレスに訪日し、[[IWGPヘビー級王座|IWGPヘビー級選手権]]試合:[[アントニオ猪木]] VS [[藤波辰爾|藤波辰巳]]戦([[東京体育館|東京都体育館]])の特別レフェリーを務めた。▼
* [[1986年]] - 右臀部を手術する。以後レスラーとしてはセミリタイヤ状態となった。▼
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*[[1987年]]11月16日 - [[WWF]] の[[ニュージャージー州]]メドーランド大会でのオールドタイマーズ・[[バトルロイヤル]]に出場、決勝で[[パット・オコーナー]]をオーバー・ザ・トップロープで破り優勝。 ▼
*[[1988年]] - [[セッド・ジニアス]]の弟子入りに伴い、[[バージニア州]][[ノーフォーク]]でレスリングスクールを開校。日本人でも[[北尾光司]](元[[横綱]]双羽黒)、[[蝶野正洋]]、[[田村潔司]]が入門するも、セッド・ジニアスからコーチ料を月額7000ドル、総額約1千万円も大金を取りながら、自分ではほとんど教えなかったという新人育成に関する問題が発生した。▼
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* [[1990年]]12月26日 - 静岡県浜松アリーナで試合。[[蝶野正洋]]と対戦しSTFで敗れる。この「試合の出来に納得が出来ず」、その後現役を引退。▼
* [[2002年]]3月9日 - 妻チャーリーとともに訪日。[[U.W.F.スネークピットジャパン]]代表の[[宮戸優光]]の[[結婚式]]に出席。▼
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* [[2002年]][[4月28日]] - [[フロリダ州]][[オーランド]]の病院で[[心臓]][[バイパス]]手術を受けたが、[[肺炎]]を併発させて心臓疾患にかかり死去。{{没年齢|1916|4|24|2002|4|28}}。▼
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== 主な得意技 ==
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