「オテル・ド・ブルゴーニュ座」の版間の差分

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桟敷席は主に貴族が中心となって座っていた席であったが、[[ランブイエ侯爵夫人]]が宮廷のあまりの品の悪さに失望して、そこからサロンが生まれたことからもわかるように、貴族と言っても品の悪い連中で、こちらも平土間席と同じようなものだった。品行の面では市民と変わらないくせに、あまつさえ、彼らは貴族という特権を振りかざし、「料金を払うのは下賤の輩のすること」などと考えていたために、こちらも料金など払うつもりは最初からないのであった。このような悪習は根強く残っていたようで、17世紀後半、1684年になっても「資格身分を問わず、無料でで劇場に入場することを厳禁する」旨の勅命が出されており、この後も繰り返し発せられている。1684年と言えば、ルイ14世によって絶対王政が完成されて久しい頃だが、それでもこのような常識的な勅命が下されているところを見ると、[[ユグノー戦争]]の傷跡が生々しく残っていた17世紀初頭のフランス混乱期の人々の風俗、品行など推して知るべしである<ref>Ibid. P.10</ref><ref>ヨーロッパの社交に関する考察 -社交的事象の場所論1-,呉谷充利,P.54</ref>。
 
ところが、観客が品行下劣なら、その舞台に立つ役者たちも同じようなもので、世間の目は決して好意的ではなかった。タルマン・デ・レオーによるこの時代の俳優に関する評が残っているが、それによればこの時代の役者はほとんど素行は悪く、夫妻揃って性的に放縦であり、特に女たちは男なら誰彼構わず相手にし、他の劇団の役者とさえ関係を持つことさえあったという。もちろんこの時代にも、ゴーチエ=ガルギーユのようにまじめな生活を送った役者も居たには違いないが、しかし宮廷や貴族も先述したように品行下劣であったのだから、何も乱れ切っていたのは役者たちだけではなかった<ref>Ibid.戸口 P.9</ref>。
 
このように、碌でもない連中ばかりが集まる場所であったのだから、オテル・ド・ブルゴーニュ劇場が「悪の巣窟」などと言われたのも無理もないことであった。こうした評判に影響されて、芝居に興味のない人々が、役者に厳しい目を向けるようになるなど、悪循環に嵌まり込んでいたのである<ref>Ibid.戸口 P.11</ref>。
 
== 歴史 ==