「阿部正弘」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
筑紫太郎 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
→‎老中就任: 雄藩の発言力の強化 朝廷の権威の強化
46行目:
[[弘化]]3年([[1846年]])、[[アメリカ合衆国|アメリカ]][[東インド艦隊 (アメリカ海軍)|東インド艦隊]]司令官[[ジェームズ・ビドル]]が[[相模国]][[浦賀]]([[神奈川県]])へ来航して通商を求めたが、正弘は[[鎖国]]を理由に拒絶した。7年後の嘉永6年([[1853年]])には[[マシュー・ペリー]]率いる東インド艦隊がアメリカ大統領[[ミラード・フィルモア|フィルモア]]の親書を携えて浦賀へ来航した。同年7月には[[長崎港|長崎]]に[[ロシア帝国|ロシア]]の[[エフィム・プチャーチン|プチャーチン]]率いる艦隊も来航して通商を求めた。
 
この国難を乗り切るため、正弘は[[朝廷]]を始め、[[外様大名]]を含む諸大名や市井からも意見を募ったが、結局有効な対策を打ち出せず、時間だけが経過した。また、[[松平春嶽|松平慶永]]や島津斉彬らの意見により、徳川斉昭を海防掛参与に任命したことなどが諸大名の幕政への介入の原因となり、結果的に幕府の権威を弱めること一方で雄藩の発言力の強化及び朝廷の権威の強化った。
 
なお、正弘自身は[[異国船打払令]]の復活をたびたび諮問しているが、いずれも海防掛の反対により断念している。ただし、これは正弘の真意ではなく斉昭ら攘夷派の不満を逸らす目的であったとの見方もある。