「ダーバー」の版間の差分

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|種 = [[サラブレッド]]
|生 = [[1911年]]
|死 = [[1932年]]
|父 = [[ラブレー (競走馬)|Rabelais]]
|母 = Armenia
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まずは2000メートルの競走を2連勝し、ラグランジュ賞に挑んだ。ラグランジュ賞(Prix Lagrange)はサルダナパルが勝ち、ダーバーは2着に入った。次にダーバーはビエンナル賞(Prix Bienniale)を勝ち、[[ノアイユ賞]](2400メートル)も勝った。次走は距離が短くなって1600メートルの[[プール・デッセ・デ・プーラン]](フランス2000ギニー)に出たものの、スタートで後手を踏んで着外に敗れた。
 
このあと、ダーバーは[[ダービーステークス|イギリスダービー]]を目指して[[エプソム競馬場]]へ向かった。ダービーには、史上最多の部類になる30頭が出走し、ダーバーの単勝馬券は21倍になった。出走馬がこれほど増えたのは、「ダメもと<ref group="注">ボストンイブニング紙の原文は「forlorn hopes」</ref>」で登録した馬の登録料の合計が巨額になったからで、それを狙って「ダメもと」で出走するものが多かったからだと、当時の新聞は伝えている<ref name="BET_19140528"/><ref group="注">この世代で、後世によく知られた馬は[[ザテトラーク]]である。ザテトラークは2歳の時に7戦無敗の強さをみせたが、3歳になると2000ギニーもダービーも怪我で出走できないまま引退した。</ref>。
 
前年(1913年)のダービーでは、[[:en:Emily Davison|女性参政権論者]]が競走中に乱入し、最終コーナーで国王所有のアンマー(Anmer)の頭絡を掴んで落馬させるという事件が起きたが{{refnest|group="注"|翻訳元の英語版では触れられていないのでひとまず詳述しないが、この1913年のダービーで「アンマーが乱入者に引き倒されたこと」はアクシデントの半分に過ぎない。最後の直線の混戦の中で、酷い進路妨害があったのだが、なぜか加害馬(大穴)と被害馬(本命馬)が入れ替わって、加害馬が優勝と判定されてしまった。その結果、本命馬の馬券は紙くずになり、100倍の大穴が勝利となってブックメーカーは大儲けをした。判定は覆らなかったが、この事件以降、イギリスの競馬主催者は「確定」という表現を使わなくなった。<ref name="dbhis_p83"/>}}、1914年のダービーも女性参政権論者のエイダ・ライス(Ada Rice)の妨害によってスタートが大幅に遅延した<ref name="EP_19140529"/>。この女性参政権論者は、ダービーの発走寸前に、走路を警備していた警官の足を銃撃した。空砲だったが、警官の制服が焦げ、警官は軽傷を負った。このために発走が20分以上も遅れた。2000ギニーの優勝馬でダービーでも本命になっていたケニーモア(Kennymore)は気性の荒い馬で、さんざん待たされたせいでイレ込んでしまい、他馬を蹴り始めた<ref name="autogenerated2"/>。
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ダーバーは、ひとまずノルマンディー地方のヌヴィー=オー=ウルム(Neuvy-au-Houlme)にある、馬主のデュリエが所有するギャゾン牧場(Haras du Gazon<ref group="注">フランス語のgazonは「芝」というような意味。</ref>)に繋養された。1924年にアメリカへ送られ、[[ケンタッキー州]][[:en:Paris, Kentucky|パリス]]にある[[クレイボーンファーム]]に移動した。1931年に再び[[メリーランド州]][[:en:Bel Air, Harford County, Maryland|ベル・エア]]にあるプロスペクト・ヒル牧場(Prospect Hill Stud)に移った。
 
ダーバーのヨーロッパでの代表産駒には、'''レビア'''('''Rebia'''、[[プール・デッセ・デ・プーリッシュ|フランス1000ギニー]]優勝)、'''ダーバン'''('''Durban'''、[[ヴェルメイユ賞]])、スカラムッシュ(Scaramouche、[[フォレ賞]])がいる。このうちダーバンは[[トウルビヨン_(競走馬)|トウルビヨン]]を産み、トウルビヨンは種牡馬として大成功した。アメリラムッシュは牡馬の中ではこれといった最も活躍した産駒で、フランスでフォレ賞、ラロシェト賞など8勝(獲得賞金393,310)をあげ、種牡としてパンタロン(Pantalon)をした。パンタロンは南米で種牡馬として成功し、なかでもタロン(Talon)はアルゼンチンでブエノスアイレスジョッキークラブ賞を勝ち、のちにアメリカに渡って[[サンタアニタハンデキャップ|サンタアニタハンデ]]や[[サンアントニオハンデキャップ|サンアントニオハンデ]]に勝った<ref name="sekai_p285"/>
 
アメリカに渡ったあとのダーバーはこれといった活躍馬は出さないまま、21歳で死んだ<ref name="sekai_p285"/>。
 
== 血統表 ==
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===参考文献===
*『ダービー その世界最高の競馬を語る』アラステア・バーネット、ティム・ネリガン著、千葉隆章・訳、(財)競馬国際交流協会刊、1998
*『サラブレッドの世界』サー・チャールズ・レスター著、佐藤正人訳、サラブレッド血統センター刊、1971
 
===注釈===
<references group="注"/>
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<!--追加した出典-->
*<ref name="dbhis_p83">『ダービー その世界最高の競馬を語る』p83-88「もっとも不運な牡駒」</ref>
*<ref name="sekai_p285">『サラブレッドの世界』p285-290「1914 ダーバーII」</ref>
 
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