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明治28年(1895年)創刊の『[[文芸倶楽部]]』では13年間に52枚の口絵を描き、多くの文学小説の単行本にも挿絵をよせるなど、[[尾形月耕]]と並ぶ人気挿絵画家となる。年方の活動期は丁度日本の出版業界が勃興する時期に重なり、口絵挿絵の評判次第で売れ行きが大きく変わることから、何でも描ける年方のもとには作画の依頼が引きも切らなかった。当時最も注文が多かった画家と言われ、生真面目な年方はどんな仕事でも依頼されれば断ることが出来なかった。錦絵でも「今様美人」のようなシリーズの他、[[風俗画]]を多く手がけ、芳年や[[楊洲周延]]の[[歌川派]]様式とは異なる、穏やかで気品のある独自の風俗画を打ち出した。
 
反面、本画の方でも歴史人物画家として活動し、明治31年([[1898年]])[[日本美術協会]]の日本画会結成に参加。第1回展に出品した「[[佐藤忠信]]参館の図」は[[宮内省]]御用品となっており、年方は日本画会の評議員になった。同年、[[日本美術院]]の創設にも参加、特別賛助員になっている。さらに[[日本絵画協会]]第5回絵画共進会で褒状1等を受賞するなど、自ら日本画を出品し各種の展覧会で活躍した。翌明治32年([[1899年]])には日本絵画協会第7回絵画共進会で「[[平忠度]]」が銅牌を、明治33年([[1900年]])の日本絵画協会第8回絵画共進会で「富峯」が同じく銅牌を、明治35年([[1902年]])の日本絵画協会第13回絵画共進会で「[[橘逸勢]]女」<ref>「[[日野邦光|日野阿新]]」と共に出品、両者とも現在個人蔵([[茨城県近代美術館]]編集 『近代日本画史を俯瞰する5 明治の日本画 1868-1912』 1994年2-3月、pp.40-41)。</ref>が銀牌を受賞した。同年、[[小堀鞆音]]と歴史風俗画会を結成し、ますます歴史画に打ち込んだ。年方のこのような活動は、浮世絵師が時代とともに町絵師から[[芸術家]]へと変わりゆく時代を示すものであった。享年43。死因は、当時の訃報記事では[[脳梗塞|脳疾患]]と書かれているが、[[過労]]とも言われる。墓所は[[台東区]]の[[谷中墓地]]にあるが、管理する者もなく荒れ果て、無縁墓として撤去が危惧される<ref>『原色浮世絵大百科事典』第2巻は年方の墓所を松葉町貞源寺としている</ref>。また[[神田神社]]には、大正12年5月に弟子たちが建立した顕彰碑があり、こちらは千代田区指定文化財(歴史資料)として指定されている。法名は色雲院空誉年方居士
 
門下から[[鏑木清方]]、[[池田輝方]]、[[榊原蕉園]]らの美人画家の他、小山光方、竹田敬方、[[大野静方]]、[[荒井寛方]]らの画家を輩出した。また後妻の[[水野秀方]]も年方に師事し、日本画家として活躍している。
<references />
 
== 作品 ==