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[[紀元前210年]]秋7月に始皇帝が50歳で病死し、末子の[[胡亥]]が[[李斯]]と[[趙高]]らに擁立されると、胡亥は趙高に自分の親族を処置を相談した。胡亥が「父の代からの重臣らは朕を馬鹿にしおるし、官僚達は適当過ぎる。また朕の叔父と兄らも朕の過失を粗探しし帝位を狙うとの噂があるようだが…」と問うた。そこで賺(すか)さず趙高は「陛下を愚弄する重臣と官僚達は全て陛下の叔父御と兄君の配下でございます。陛下、そこでです。まずは官僚とそれを監察する大臣らを苛酷に裁くのです。彼等に過度があれば、そのお上である叔父御と兄君を連座として罪に問うことが可能です。」と述べた。こうして、世に言う趙高の'''恐怖政治'''が始ったという。
趙高はまず自分に敵愾心を見せる官僚と大臣を捕らえて、無実の罪でこれを処刑した。さらに亡き始皇帝の公子12人([[公子高]]も含む)が[[咸陽]]の市場で極刑され、公主10人が[[磔]]の刑に処されて無惨な最期を遂げ、その財産は殆ど没収されたという。しばらくして、趙高の親衛隊長が将閭の邸宅に乗り込んで来て「公子将閭さまとその
後日談になるが、一説で
== 関連 ==
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