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'''マルコポーロ事件'''(マルコポーロじけん)とは、[[1995年]]2月に日本の[[文藝春秋]]が発行していた[[雑誌]]『[[マルコポーロ (雑誌)|マルコポーロ]]』が、内科医[[西岡昌紀]]が寄稿した[[ホロコースト]]を否定する内容の記事を掲載したことに対して、アメリカの[[ユダヤ人]]団体[[サイモン・ウィーゼンタール・センター]]などからの抗議を受けて同誌を自主[[廃刊]]したこと、及び当時の社長や編集長が辞任解任された事態を指す。この事件は、[[日本]]における「[[歴史修正主義]]」あるいは「[[ホロコースト否認|ホロコースト否認論]]」を巡る状況のなかで、最も広範囲に話題となったもののひとつである。また、日本における[[言論自由]]をめぐる出版界の商業主義、過度な広告依存、スポンサーへの過剰萎縮などの議論のきっかけとなった。
 
== 概要 ==
発端は、文藝春秋が発行していた雑誌『マルコポーロ』の1995年2月号に掲載された記事「戦後世界史最大 のタブー。ナチ『ガス室』はなかった。」であった。記事は国立病院に勤務する[[西岡昌紀]]が、[[1989年]]頃から収集した英文資料と、[[1994年]]8月に[[アウシュヴィッツ]]と[[マイダネク]]を自らに観光に訪れ、多数の写真た際に撮影などを行った上でのち[[1989年]]頃から収集した英文図書に基づき執筆したものであった。掲載にあたっての題名は『マルコポーロ』編集部が決めたものであった。この事件は公権力の強制力を伴う法規性や言論規制ではなく、言論による批判の結果として、あるいは広告収入に過度に依存し萎縮した結果として、言論機関が自主的に廃刊を決定したもので民事裁判にもなっていないため、[[憲法学]]上の概念としての「言論の自由」に対する弾圧事件ではなく、正確には「未係争の民事紛争事件」である
 
その内容は、[[ナチス党]]政権下の[[ドイツ]]が[[ユダヤ人]]を[[差別]]、迫害したことは明白な史実としながらも、
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などというものであった。
 
この記事を掲載した『マルコポーロ』1995年2月号が発売されたのは1995年1月17日、[[阪神・淡路大震災|阪神大震災]]が起きた日であった。このため、当初発売直後は[[マスメディア]]上の反応は、震災報道に覆い隠されていた。また国内の多くの識者は、記事の内容そのものがニュルンベルク裁判におけるナチス戦犯と連合国による証拠と弁論に基づく判決と戦犯処刑によって決着した戦後処理事案の蒸し返しにすぎないと受け止め、話題性がないとして沈黙を守った。
 
雑誌発売を受けて直ちに、[[アメリカ合衆国]]の[[ユダヤ人]]団体と[[イスラエル]][[大使館]]が、同誌を発行する文藝春秋社に抗議を開始した。特に[[サイモン・ウィーゼンタール・センター]](SWC)が内外の企業に対して、[[週刊文春]]をはじめとする文藝春秋社発行雑誌全体への広告出稿をボイコットするよう呼びかけた。ただしイスラエル大使館はSWCは終始一貫してマルコポーロ廃刊求めていない。この事態により事件の話題性とニュースバリューは高まり同社マスコミや識者から事件が注目され、言論界や国民各層から記事への大きな圧力と批判や文芸春秋への抗議が寄せられるようになった。『マルコポーロ』編集部は、当初、抗議団体に反論のページを提供するなどて記事事実の撤回と謝罪を拒んでいたが、結局、文藝春秋社は『マルコポーロ』自体の自発廃刊、及び社長・『マルコポーロ』編集長ら記事雑誌編集・発行に対して責任のある人々の解任を決定した。
 
執筆者の西岡や木村愛二などホロコースト見直し論者はこの決定に抗議を展開した。また、歴史認識と言論の自由の保障責任をめぐって広範な議論が起こった(もっとも、ヨーロッパではこの廃刊抗議者が論ずるような主張はナチ賛美に繋がるはヨーロッパでは犯罪と定義されている)。また、この事件をきっかけとして、過度な広告収入への依存に対する反省や出版社のスポンサーからの自立についても議論が広がった
 
== 西岡論文 ==
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{{Quotation|チクロンBは、青酸ガスを遊離します。そして、青酸ガスは猛毒です。ですから、そのことだけを考えれば、「チクロンBによる大量殺人」という話は、何も不合理ではないように思われるかも知れません。しかし、こうしたこうしたことをするのに一体どれだけ時間が必要か、ちょっと定量的に考えてみたいのです。今、「定説」側が説明するように、「大量殺人」の目的で、チクロンBを「ガス室」に投げ込んだとしましょう。すると、投げ込まれたチクロンBは、先に述べたような原理で青酸ガスを遊離し始めます。ところが、ここで考えなければならない問題があるのです。それは、そうした青酸ガス遊離がどれくらい続くのか、という問題です。即ち、青酸ガスを吸収または吸着したパルプ片など(チップ)が「ガス室」に投げ込まれる。そして、その投げ込まれたチップから青酸ガスが遊離し始める。それは分かります。しかし、それでは、その青酸ガスの遊離が完全に終わるまでに、一体どれくらいの時間が掛かるのか。それを考えなければなりません。即ち、缶を開けてチクロンBの中身(パルプ片などのチップ)を出すと、それらのチップは青酸ガスを遊離し始めます。それを「ガス室」に投げ込んだのだと「定説」は言うわけですが、ここに重大な問題があります。それは、投げ込まれたチップからの青酸ガス遊離が終わらない内は、「ガス室」内部での青酸ガス遊離は続くということです。従って、その間は、「ガス室」を換気することは無意味ということになります。また、当然のことながら、その間は、「ガス室」の扉を開けることも、その中から死体を搬出することもできません。ですから、その「ガス室」での「大量殺人」に従事する作業員たちは、たとえ「ガス室」の中の人間が全員死んだとしても、「ガス室」内部でチクロンBが青酸ガスを遊離し続ける間は、「ガス室」の扉を開けることもできず、その外で待ち続けなければならなかったはずなのです。ところが、戦前チェコのプラハで発行されていたチクロンBの使用指示書(NI-9912)や、チクロンBの製造元が発行していた使用説明書を読むと、こう書かれてあるのです。チクロンBから青酸ガスが遊離し続ける時間(Einwirkungszeit)は、摂氏5度以下の場合で32時間、加熱すれば遊離は早まり、この時間を短縮できるが、それでも最低6時間にはなる、と。つまり、気温によって差はありますが、一旦チクロンBを缶から出したら、最低でも6時間は、青酸ガスを遊離し続けるということです。それどころか、気温が低ければ(摂氏5度以下の時)、32時間も青酸ガスが遊離し続ける場合もある、ということなのです。ですから、もしそのチクロンBを「ガス室」に投げ込んだら、投げ込まれたチクロンBは、5度以下では32時間、加熱した場合でも最低6時間は、青酸ガスを遊離し続けることになるのです。当然、その間は、たとえ「ガス室」内部の人々が全員死亡したとしても、「ガス室」を換気することも、扉を開けることもできない、ということになります。その上、プラハで発行されていた前述の使用指示書(NI-9912)や、チクロンBの製造元が発行していた使用説明書を読むと、こんなことも書いてあるのです。チクロンBを使って倉庫などの害虫駆除を行なった場合、その倉庫などの換気にどれくらい時間をかけるべきか、という記述があるのですが、それらによると、10時間から20時間の換気をしないと安全ではない、というのです。つまり、チクロンBが遊離する青酸ガスに、壁などに吸着し易いという物理的性質があるからだと思われます。(また、別の資料には、こうした吸着性の故に、強制換気をしてもあまり変わりがなく、それよりも長時間、自然の通風によって換気した方がよいという記述があるそうですが、この資料は、私自身は未入手で読んでいません)
いつ、どんな場所でも、このような長時間の換気が必要だったとは思いませんが、今論じている「ガス室」の場合、中空の部屋などではなく、人間の体でびっしりと満たされた空間なのですから、普通の倉庫などよりも換気が困難なことは想像するまでもありません。そこで仮に、この数字をそのまま適用すると、チクロンBで「ガス室処刑」を行なった場合、これだけ時間が掛かることになります。前述のように、チクロンBの青酸ガス遊離が終わるまでに最短でも6時間、最長で32時間。そして、換気に10時間から20時間というわけですから、合計して、最短で16時間、最長で52時間。「ガス室」にチクロンBを投げ込んで「処刑」を開始してから、「ガス室」の換気を終了するまでに、これだけ時間が掛かるということです。これが、「民族絶滅」の方法なのでしょうか?<ref>西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』(日新報道・1997年)217~220ページ</ref>}}
 
== 廃刊の経緯 ==
『マルコポーロ』1995年2月号は同年1月17日に発売されたが、これは阪神大震災が発生した日である。この未曾有の大災害発生と同じ日に発売されたことから、発売後10日くらいは、阪神大震災の報道で埋め尽くされた新聞・テレビで、この雑誌記事が取り上げられることはなかった。
 
=== サイモン・ウィーゼンタール・センターによる抗議と広告ボイコット運動 ===
しかし、発売直後から、[[ロサンゼルス]]の[[ユダヤ人]]団体[[サイモン・ウィーゼンタール・センター]](SWC)と[[イスラエル]]大使館は『マルコポーロ』編集部に抗議を開始してい。ま。特にSWCは『マルコポーロ』のこの号が発売された直後に駐米日本大使に記事を非難する書簡を送っている。すなわち、同センターは日本の一雑誌が掲載し記事に対して日本政府の行動を求め。まことになる。SWCは同時文藝春秋全世界の広告を出稿する企業に向け文藝春秋に一切の広告を提供しないことをよう求めたが、。ただし廃刊までは求めなかった。この広告ボイコットに呼応したのは欧米企業よりもむしろだけでなく日本企業であっも応じ広告ボイコット運動を是とした。欧米企業はあまりこのもともと文藝春秋に広告を出稿している企業が少なかったため呼びかけに呼応しておらず、する企業数は日本企業のそれよりも少なかった。呼応した企業のひとつも、例えばある[[マイクロソフト]]社など廃刊が発表される直前まで広告た後にボイコットに応じなかったている
 
これに対し、『マルコポーロ』編集部は、まずSWCに反論のページを10ページ提供すると提案。しかし、SWCは反論書に対する編集権が『マルコポーロ』編集部にあり反論を掲載すべきメディアとして不適当として無編集掲載を要求したが『マルコポーロ』編集部この提案要求を拒否した。その結果徹底的な広告ボイコット運動を推進した。こが続けらることた。広告出稿企業はこうした運動を無視し広告を出稿をする自由があったが多くの出稿企業はSWCに理(と利)有りとして『マルコポーロ』のみならずを含む『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』にも広告が全く入各誌への出稿しない状態を自発的にやめた。こうして文藝春秋は企業存続の窮地に陥った。西岡が雑誌のインタビューなど述べたところによれば、『マルコポーロ』廃刊の決定がなされる直前、文春社内では「経験したことのない事態」であるとの発言があったほか、「早く何とかしないと『[[ニューヨーク・タイムズ]]』が動き出す」といった発言をした幹部がいたと言う事実を文春関係者から聴いたという。文春がこうした状況にあった一方で、著なお記事執筆者の西岡自身対して雑誌編集権が無いため雑誌の編集をめぐる抗議や圧力は寄せられず、『マルコポーロ』廃刊が発表された後に記事の執筆者責任をめぐ当日までは何ら抗議や圧力は批判が寄せられているようにった。
 
=== 文藝春秋による謝罪と『マルコポーロ』廃刊 ===
こうして、発売から13日ほどが経った1月30日、文藝春秋は編集権は執筆者ではなく編集部であり発行責任は出版社自身にあるとして西岡には相談せず、出版社として「記事は誤り」と発表し公的な謝罪をすると共に、『マルコポーロ』の廃刊と[[花田紀凱]]編集長の解任を発表し、記事に関係する幹部構成員を更迭した<ref>なお、この廃刊が決定される直前(1月27日)、アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所があるポーランドでは、「アウシュヴィッツ解放50周年」の式典が、ポーランドとイスラエルの対立から、分裂した形で行われている。</ref>。[[田中健五]]社長は、この時点では、社長の職に留まると廃刊を発表されが、1995年2月2日(木)のホテル・ニューオータニでの記者会見で時に社長の職に留まると述べたが、に社内外から批判を浴び、結局、2月中旬に、自身も社長の田中健五は代表職を解かれている辞任した花田紀凱編集長と同様ポストを解かれた『マルコポーロ』廃刊により文芸春秋編集有志がSWCでのセミナーやアウシュヴィッツ見学に参加することを求められた。『マルコポーロ』1995年2月号の回収は、実際には行われていない。
 
廃刊が発表された1月30日(月)、[[外務省]]の斎藤事務次官は記者会見を開き、外務省の見解として「廃刊措置は適切だった」と述べている。
 
=== 江川紹子による指摘 ===
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=== 西岡による批判 ===
廃刊が発表された1月30日(月)、問題となった論考の執筆者である西岡は、[[朝日新聞]]夕刊紙上(社会面)で、文春の一方的な決定に対する強い怒りを表明した。この記事を書いたのは、朝日新聞社会部記者で、文藝春秋に強い反感を持つ[[本田雅和]]記者であったが、この朝日新聞夕刊に掲載された西岡の肉声が、主張は文春の謝罪と食い違っている事が、新聞で西田が語ったとされる主張は西田自身の主張である件を複雑する違いはなかった。<!---独自研究?出典なし---(本田は、西岡が文春の謝罪に同意していない事を西岡の肉声によって報じる事で、SWCに謝罪した文春が窮地に陥る事を予期して、西岡の肉声をいち早く報じたと思われる。)--->
 
西岡は、廃刊発表の2日後の2月1日(水)に[[総評会館]]で記者会見を開く。この記者会見を計画したのは、左翼・護憲派であるが、西岡と同様ホロコースト見直し論者であるフリー・ジャーナリストの[[木村愛二]]であった。一方、文春関係者の一人も、廃刊が発表された1月30日(月)の夜、西岡に電話をかけて、文春・SWCに対抗する記者会見を開く事をひそかに提案しており、当時の文春社内での社員の不満が伺える。
 
西岡は、廃刊発表の2日後の2月1日に[[木村愛二]]企画による[[総評会館]]で記者会見を開いた。一方、文春関係者の一人も廃刊が発表された1月30日の夜西岡に電話をかけ文春・SWCに対抗する記者会見を開く事をひそかに提案しており当時の文春社内での社員の不満が伺える、と西岡は述べた。が、それらを含めた会見発言や発言内容の動揺は執筆者の責任回避と受けとめられ、記者会見の西岡の主張が在京マスメディアで好意的に受け止められることは無かった。
==== 厚生省による圧力 ====
廃刊発表の翌日の1月31日(火)、当時[[厚生省]]職員であった西岡の行動に対して、厚生省幹部は、西岡の勤務病院幹部を通じて、事件について今後、一切発言をしないようにと言う圧力をかけている<ref>この厚生省による事件への介入については、m9 Vol.2 ([[晋遊舎]]ムック2008年)に掲載された同誌による西岡へのインタビューに詳しい</ref>。特に、その翌日に行われる事となった記者会見を中止するように、強い圧力を加えている。厚生省直轄の勤務病院で、西岡はなかば軟禁状態に置かれた。
 
==== 厚生省による圧力職務専念義務指導 ====
記者会見当日の2月1日(水)、西岡は、このままでは病院から出られないのではないかと思い、記者会見に出席しないという嘘を関係者に流して厚生省側を安心させた上で、病院の前に迎えに来た『サンデー毎日』の車に飛び乗り、都内の記者会見会場に到着している。この厚生省からの圧力について、西岡は、記者会見の冒頭で、官庁名(厚生省)は出さないままに強く批判した。しかし、翌日の[[朝日新聞|朝日]]・[[毎日新聞|毎日]]・[[読売新聞|読売]]・[[日本経済新聞|日経]]は、西岡による記者会見自体は伝えながら、西岡が記者会見冒頭で抗議した厚生省による介入については、報道をしなかった。(『[[正論 (雑誌)|正論]]』と[[スポーツ新聞]]のいくつかはこの官庁による圧力を比較的大きく報じた)
廃刊発表の翌日の1月31日(火)、当時[[厚生省]]職員であった西岡の行動に対し、厚生省幹部国家公務員法が規定する職務専念義務を西岡に求めるため、勤務病院幹部を通じて、事件について今後一切発言をしないようせず職務と言う圧力をかけてい専念すよう指導した。<ref>この厚生省による事件への介入職務専念義務指導については、m9 Vol.2 ([[晋遊舎]]ムック2008年)に掲載された同誌による西岡へのインタビューに詳で「西岡側主張」とて述べられて</ref>。特に、またその翌日に行われる事となった記者会見を中止するように、強い圧力指導加えている実施した。厚生省直轄の勤務病院で西岡はなかば軟禁状態に置かれた」と「西岡は」主張している。だが、警察への被害届は無く、後述するように実際には出入り自由であった。
 
記者会見当日の2月1日(水)、西岡は、執筆記事への批判から精神不安定状態になりこのままでは病院から出られないのではないかと思いこみ、記者会見に出席しないという嘘を関係者に流し厚生省側を安心させた」と思い込んだ上で、病院の前に迎えに来た『サンデー毎日』の車に飛び乗り、都内の記者会見会場に到着している向かったこの厚生省からの圧力職務専念義務指導について西岡は記者会見冒頭で官庁名(厚生省)は出さないままに強く批判した。しかし、翌日の[[朝日新聞|朝日]]・[[毎日新聞|毎日]]・[[読売新聞|読売]]・[[日本経済新聞|日経]]は、西岡による記者会見自体は伝えながら、西岡が記者会見冒頭で抗議した厚生省による介入については、裏づけ取材によりその事実が無く単に職務専念義務指導にすぎなかったため報道をしなかったことが明らかになっている。(ただし反連合国史観の論壇誌『[[正論 (雑誌)|正論]]』と[[スポーツ新聞]]のいくつかこの官庁による圧力」という西岡の主張比較的大きく「西岡の主張」として報じている
 
=== 文藝春秋社とSWC共同記者会見 ===
2月2日、文藝春秋社とSWCはホテル・ニューオータニで共同記者会見を開催した。厳重な出席者制限の下で行われた記者会見であったが、廃刊の決定に不満を持つ文春社員元編集者は、上層部取締役会の方針に反してホロコースト見直し論者であるフリージャーナリストの[[木村愛二]]を会場にれている。させ、木村はSWC野次を文春ばすなどして会見厳しく追及妨害した。また会場では『マルコポーロ』次号に阪神大震災のルポルタージュを執筆すべく神戸で取材中掲載予定だったフリー・ジャーナリストの[[江川紹子]]も現れ、SWCマルコポーロ圧力行動を激記事の内容は支持言葉と表明したうえ非難、自分が取材した記事掲載がつぶれたことの不満をSWCの抗議方法に批判の矛先を向けることで表明した。江川は、SWCに強く批判したが、出稿企業がSWCの広告出稿中止要請を自由に拒否することができたという実や「出稿企業側内容は支持判断の是非」や「ホロコースト犠牲者を冒涜する記事に広告を出利益を得る企業の倫理欠如」とった問題つては沈黙を守ったこの記者会見江川紹子は次の様に批判している述べた。<ref>[[江川紹子]]「『マルコポーロ』廃刊事件で何が問われたか」月刊『創』1995年4月号</ref>。
 
田中社長の記者会見について。
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また、記事の中で西岡に「ガス室を捏造した」と名指しされたポーランド大使館は沈黙を守っている。新聞、テレビは、ポーランド大使館の沈黙に注目しなかったが、『[[噂の真相]]』は、ポーランド大使館に沈黙の理由を問い合せている。この『噂の真相』からの問い合わせに対し、ポーランド大使館は「既に抗議活動が起きていたので、それに加わる必要はないと考えた」という意味の回答を寄せている。
 
=== 討論執筆者主催による炎上集会 ===
木村愛二は、『マルコポーロ』廃刊事件後、2月15日及び2月18日に総評会館で討論集会を開いている<ref>き、2回の公開討論は木村愛二が営業する[[木村書店]]から販売されているVHSた。こうした木村によって、参加者の発言を全て確認でき</ref>。自称「討論集会」なる炎上商法のためのの席には、月刊『[[創 (雑誌)|創]]』編集長の[[篠田博之]]が中立的な企業広告の萎縮を懸念する立場から司会者として加わった他、アメリカのユダヤ人で、左翼リベラルの立場からホロコーストの再検証を行っていたビデオ作家の[[デイヴィッド・コール]](David Cole)や、[[731部隊]]の研究で高名な科学史を専門とする[[常石敬一]](神奈川大学教授・科学史)なども中立的な立場から参加した。
 
2月18日の討論会の場で、[[常石敬一]]は、ナチスドイツは、[[アウシュヴィッツ]]等のガス室で、議論の多い[[ツィクロンB]]を使ったのではなく、[[サリン]]等の[[神経ガス]]を使用したのではないか?と言う新説を述べた。又、同じ2月18日の討論会の場で、アメリカ留学経験のある朝日新聞の[[本田雅和]]記者、堪能な英語で、「ヒトラーが演説の中でユダヤ人絶滅を予言していたのでは?」と質問しコールが反論する場面などがあったが、議論は最後までかみ合わなかった。
 
=== アジア記者クラブ主催講演 ===
また、[[アジア記者クラブ]]は、西岡と木村を招いて、会合で二人にマルコポーロ廃刊事件とホロコースト見直し論に関する講演を行わせている集会は盛況で、全体としては、西岡と木村が掲載メディアを失ったことに対して好意同情なメディアもあったが、左翼系である同記者クラブが、ホロコースト見直し論者である西岡と木村を招いて講演を行わせた事に歴史修正主義的な歴史認識に批判的な同記者クラブ関係者は反発して、欠席したメディア関係者もありするなど、同クラブの反応は分かれた。
 
オウム真理教への強制捜査などの報道の中、世論の多数が廃刊やむなし収束したことにより、この事件の報道は下火となっていったが、文藝春秋社で開かれたSWCによるセミナーのやりとりが密かに録音され、『噂の真相』で記事として暴露された<ref>。「噂の眞相」1995年4月号「特集2ユダヤ人団体の抗議と広告撤退に完全屈服!『マルコポーロ』を突如廃刊にした文藝春秋の寒々しい”言論事情”」 丸山昇 1995年4月2日発行 2014年11月24日閲覧</ref>だがこのような散発的に書かれるセンセーショナルな記事も、マルコポーロ編集部の編集責任の欠如を結果的に強調するものとなり、マルコポーロ廃刊やむなしとの世論を補完する方向に作用した。
 
=== 渡辺武達による批判 ===