「大樋焼」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
→‎概要: 現在、大樋長左衛門の戸籍上の子孫は作陶活動を行っていないため、表記の「子孫」について誤解を与えぬよう付記しました。 日本語上これで問題はないはずです。 その上でこ...
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
7行目:
仙叟が帰京する[[貞享]]3年([[1686年]])後も長左衛門は残り、[[河北郡]]大樋村(現、[[金沢市]]大樋町)に居を構え、窯を建てて藩の焼物御用を務め、加賀藩より地名から大樋姓を許された。
 
大樋焼の制作活動は[[明治維新]]後、藩の御庭焼から民間の窯元として[[生業]]を立てざるを得なくなったことや、明治期動乱の[[茶道]]の衰退と重なって苦難の時期を迎えることになるが、後継の門人達またその門人の子孫の制作活動の結果、飴色釉の特色ある稀有な焼物として全国的に知られるようになる。
 
金沢市橋場町に[[大樋長左衛門|十代大樋長左衛門]]窯、[[大樋美術館]]がある。