「天台宗」の版間の差分

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初め、[[律宗]]と天台宗兼学の僧[[鑑真]]和上が来日して天台宗関連の典籍が日本に入った。次いで、伝教大師'''[[最澄]]'''(767年-822年)が延暦24年([[805年]])[[唐]]に渡り天台山にのぼり、天台教学を受けて翌年([[806年]])帰国し伝えたのが日本における天台宗のはじまりである。最澄は特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。
 
この時代、すでに日本には[[法相宗]]や[[華厳宗]]など[[南都六宗]]が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄は日本へ帰国後、比叡山'''[[延暦寺]]'''に戻り、後年[[円仁]](慈覚大師)・[[円珍]](智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を説き、[[奈良仏教]]と論争が起こる。特に法相宗の[[徳一]]との[[三一権実諍論]]は有名である。また、鑑真和上が招来した小乗戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、[[大乗仏教|大乗]][[戒壇]]を設立し、[[大乗戒]]([[円頓戒]])を受戒した者を天台宗の僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問・修行を修めるという革新的な最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇の勅許が下り、名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。
 
=== 天台密教(台密) ===