「神仏分離」の版間の差分

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神仏分離令は仏教排斥を意図したものではなかったが、これをきっかけに全国各地で[[廃仏毀釈]]運動がおこり、各地の寺院や仏具の破壊が行なわれた。地方の[[神官]]や[[国学者]]が扇動し、[[寺請]]制度のもとで寺院の腐敗に苦しめられていた民衆がこれに加わった。腐敗の例として、[[戒名]]代が少ないことを理由に、僧侶から[[破門]]を仄めかされる(破門されると[[切支丹]]と見做される)ことなどがある。
 
政府は神道[[神道国教]]の下準備として神仏分離政策を行なったが、明治5年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]([[1872年]][[4月21日]])の[[神祇省]]廃止・[[教部省]]設置で頓挫し、神仏共同布教体制となった。
 
神仏分離は、儒家神道や水戸学・国学における廃仏論、近世前期における水戸藩・岡山藩・会津藩での寺院整理から近世後期および幕末の水戸藩・津和野藩での社寺改正、白川家・吉田家から神道裁許状を受けた御師による全国的な活動など、近世の思想的・政治的・社会的状況に淵源をもつ(特に吉田家は[[唯一神道]]を奉じて[[両部神道]]を批判していた)。それゆえ、明治初期の神仏分離は政府による政策の面だけではなく、それを受け入れる社会的土壌がすでに形成されていたと見ることができる。
 
== 脚注 ==