「鄢陵の戦い」の版間の差分

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[[紀元前579年]]、晋と楚は[[宋 (春秋)|宋]]の地で[[会盟]]を行い、晋楚両方に親交のあった宋の[[華元]]の仲介により、両者が共に宋と盟約を結ぶ形で停戦した(『[[史記]]宋微子世家』にはこの出来事を[[紀元前589年]](宋[[共公 (宋)|共公]]元年)としているが、『[[春秋左氏伝|左伝]]』には紀元前579年([[魯]][[成公 (魯)|成公]]十一年)としている。『史記』の元年は九年の誤りと見られる)。
 
しかし[[紀元前577年]]、晋の盟下にある[[鄭]]が楚の盟下にある[[許]]を討ったので楚の[[共王 (楚)|共王]]は許を救うために鄭を討った。翌年、楚によって討たれた鄭は楚に領土を割譲して和睦し、楚の盟下に置かれることになった。晋の[[レイ公 (晋)|厲公]]は元々自分に従っていた鄭の背信を正すために、[[衛]]・[[斉 (春秋)|斉]]・魯などを従えて鄭を討つことにした。鄭は楚に救援を求めたので、晋と楚は再び戦うことになった。これが'''鄢陵の戦い'''である。
 
==鄢陵の戦い==