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== 歴史 ==
=== 先史時代・古代 ===
[[File:Coins of Arsaos in Navarre Spain 150BCE 100BCE Roman stylistic influence.jpg|thumb|200px|right|古代ローマの影響を示す硬貨(紀元前150-紀元前100年頃)]]
 
ナバラに残る最古の考古学遺跡は、後期[[旧石器時代]]の{{仮リンク|マドレーヌ文化|en|Magdalenian}}期(18,000年前 - 11,000年前)のものである<ref name=subete25>ナバラ州政府(2005)、p.25</ref>。北西部の{{仮リンク|アララール山地|en|Aralar Range}}には[[青銅器時代|金属器時代]]初期の[[巨石記念物]]([[支石墓|ドルメン]]、[[メンヒル]]、[[ストーンサークル]])が見られ、南部には[[鉄器時代]]の集落が発見されている<ref name=subete26>ナバラ州政府(2005)、p.26</ref>。
 
その後やってきた[[ケルト人]]はバスク地方に金属加工術や火葬の習慣をもたらし、紀元前3世紀には[[カルタゴ]]人がピレネー山麓に達した<ref name=bard1920>バード(1995)、pp.19-20</ref>。紀元前133年の{{仮リンク|ヌマンティア|en|Numantia}}の攻囲戦で[[古代ローマ人]]がケルト人を破ると、紀元前75年には[[グナエウス・ポンペイウス]]が自身の名に因んだ都市ポンパエロ(現[[パンプローナ]])を建設した<ref name=allieres4143>アリエール(1992)、pp.41-43</ref>。ポンパエロには神殿、[[古代ローマの公衆浴場|公衆浴場]]、邸宅などが築かれてローマ的な都市となり<ref name=bard2528>バード(1995)、pp.25-28</ref><ref name=michi9>大泉(2007)、p.9</ref>、[[ブドウ]]、[[オリーブ]]、[[小麦]]などのローマ作物の大規模農場が作られた。東部のサングエサやルンビエル、[[アラゴン川]]や[[アルガ川]]河畔の町はローマ化が著しく、逆に山間部の谷はほとんどローマの影響を受けなかった<ref name=bard2528/>。ローマ時代にキリスト教がバスク地方に定着していたとする有力な証拠はないが、伝説によれば、[[レイレ修道院]]の建設は435年、イラチェ修道院の建設は西ゴート時代、[[ロンセスバーリェス]]修道院の建設は638年とされているref name=bard3134>バード(1995)、pp.31-34</ref>。
 
=== 中世・近世 ===
[[File:castillo javier.jpg|right|thumb|200px|[[フランシスコ・ザビエル]]が育ったハビエル城]]
{{See also|ナバラ王国}}
かつてナバラ王国が[[ピレネー山脈]]を挟んでこの一帯を統治していた。ナバラ王国はもともとパンプローナ王国と呼ばれ、[[824年]]頃にイニゴ・アリスタが[[フランク王国]]に反乱を起こして建国した。[[1512年]]、[[アラゴン王国|アラゴン]]王[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド2世]]によって山脈から南側はスペインに統合された。
 
[[西ゴート族]]も[[フランク族]]もこの地域を完全に征服するには至らなかった。778年、[[カール大帝]]率いるフランク族の軍隊はパンプローナの城壁を破壊したが、これに憤慨したバスク人との戦い([[ロンセスバーリェスの戦い]])には大敗し、この戦いは叙事詩[[ローランの歌]]のモデルとなった。824年にはバスク人の族長イニゴ・アリスタがイスラーム勢力と手を組んでフランク族に勝利し、イニゴ・アリスタはパンプローナ王国(後の[[ナバラ王国]])を築いた<ref name=subete59>ナバラ州政府(2005)、p.59</ref><ref name="Collins1990">{{cite book|last=Collins|first=Roger|title=The Basques|year=1990|publisher=Basil Blackwell|location=Oxford, UK|isbn=0631175652|edition=2nd |ref=harv}}, p. 140-141.</ref>。905年にサンチョ1世によってヒメネス王朝が始まると、10世紀半ばにはレオン王国、アラバ、リバゴルサ、カスティーリャ王国、カリフ国などと婚姻関係を結んだ<ref name=bard4546>バード(1995)、pp.45-46</ref>。パンプローナ王国は[[首都]]を持ち[[司教区]]を為す主権王国となり、1000年までにはナバラ王国として知られるようになった<ref name=bard4853>バード(1995)、pp.48-53</ref>。1004年に即位した[[サンチョ3世 (ナバラ王)|サンチョ3世]](大王)は、カスティーリャ、ラ・リオハ、アラゴン、バスクの諸地域を次々と従えて王国の地位を強固なものとし<ref name=allieres4650>アリエール(1992)、pp.46-50</ref><ref name=subete59/>、[[ピレネー山脈]]以南([[イベリア半島]])の[[キリスト教]]圏の大部分を支配した{{Sfnp|Collins|1990|p=181}}。850年以後に[[サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路|サンティアゴの巡礼路]]が[[巡礼|巡礼者]]の人気を得たが、サンポール峠かシーズ峠でピレネー越えをした巡礼路はナバラで合流し、[[プエンテ・ラ・レイナ]]や[[エステーリャ]]の町を通過した。巡礼者の往来は11世紀にピークに達し、ナバラは巡礼者と接する中でキリスト教を受け入れていった。
フランス側に分かれた地方は[[バス=ナヴァール]]と呼ばれ、現在はフランスの[[ピレネー=アトランティック県]]の一部である[[フランス領バスク]]になっている。ナバラ王エンリケ3世が[[1589年]]にフランス王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]として即位した後、歴代のフランス王はナバラ王を兼ね、フランス側のナバラは[[1791年]]まで別の王国として存続した。
 
1035年にサンチョ3世が亡くなると王国は息子たちに分割され、その政治力はサンチョ3世時代まで回復することはなかったが、巡礼路を通じて貿易商や巡礼者が流入したため、ナバラ王国の商業的重要性は増した{{Sfnp|Collins|1990|pp=214-215}}。ナバラ王国時代には[[イスラム美術|アラブ美術]]が持ち込まれ、[[トゥデラ]]の[[モスク]]の廃墟、[[レイレ修道院]]やフィテロ<small>([[:en:Fitero|英語版]])</small>修道院の象牙細工の小箱などが残っている<ref name=subete26/>。1076年にはアラゴン王[[サンチョ1世 (アラゴン王)|サンチョ1世]]がナバラ王国を併合し、ナバラ王国は[[アラゴン王国]]の一地方となったが、[[ガルシア6世 (ナバラ王)|ガルシア6世]](復興王)が王位に就いた1134年にはアラゴン王国から独立して再び主権を建てた<ref name=bard6468>バード(1995)、pp.64-68</ref>。1200年にはカスティーリャ王[[アルフォンソ8世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ8世]]にビスケー湾岸のアラバ、ビスカヤ、ギプスコアの3地域を奪われ、ナバラ王国は海岸部を失って内陸国となったが{{Sfnp|Collins|1990|pp=185}}、1212年にカトリック諸国連合軍が[[ムワッヒド朝]]に挑んだ[[ナバス・デ・トロサの戦い]]では、[[サンチョ7世 (ナバラ王)|サンチョ7世]](不屈王)が率いる少数ながら象徴的な200人の騎士たちがカトリック勢力の勝利に貢献し、[[レコンキスタ]](再征服運動)においてイスラーム勢力に決定的な打撃を与えた<ref name=bard6870>バード(1995)、pp.68-70</ref>。1234年に死去したサンチョ7世には嗣子がおらず、シャンパーニュ家の[[テオバルド1世 (ナバラ王)|テオバルド1世]]が即位してフランス王朝が始まったが<ref name=bard9799>バード(1995)、pp.97-99</ref>{{Sfnp|Collins|1990|pp=232}}、ナバラ王国は強力な[[フエロ]](特権法や特権制度)の大部分を維持した。1441年に女王の[[ブランカ1世 (ナバラ女王)|ブランカ1世]]が死去すると、共同君主だった夫の[[フアン2世 (アラゴン王)|フアン2世]]は長男[[カルロス (ビアナ公)|カルロス]]に王位を譲らず、1451年にはナバラ王国の貴族間で[[ナバーラ内戦|ナバラ内戦]]が発生した{{Sfnp|Monreal/Jimeno|2012|pp=10-15}}。
 
ナバラ王国は内戦によって隙が生まれ、1512年にはカスティーリャ王[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド5世]]がナバラ王国に侵攻して併合し<ref name=hagio7175>萩尾ほか(2012)、pp.71-75</ref><ref>{{cite book | author1 = Monreal, Gregorio| author2 = Jimeno, Roldan|year = 2012 | title = Conquista e Incorporación de Navarra a Castilla| publisher = Pamiela | location=Pamplona-Iruña| isbn = 978-84-7681-736-0}}, pp. 30-32</ref>、ナバラ王国は[[カスティーリャ王国]]の副王領となったが、立法・行政・司法の各機構はナバラ王国に残された<ref name=watanabe36>渡部哲郎『バスク –もう一つのスペイン-』彩流社、1984年、p.36</ref>。ナバラ王位にあった[[カタリナ (ナバラ女王)|カタリナ]]と[[フアン3世 (ナバラ王)|フアン3世]]は[[ピレネー山脈]]北部に逃れ、1555年までに、アルブレ家の女王[[ジャンヌ・ダルブレ]]が率いるナヴァール王国(ナヴァール=ベアルン王国)が確立された。ピレネー山脈の南側では、1610年にアンリ4世がスペイン側のナバラ王国に進軍の準備を行うまで、副王領としての王国は不安定なバランスの上にあった。ナヴァール王エンリケ3世が1589年にフランス王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]として即位すると、歴代のフランス王はナヴァール王を兼ね、フランス側のナヴァール王国は1791年まで存続した。
 
[[スペイン独立戦争]]後の1833年には第一次[[カルリスタ戦争]]が勃発したが、1839年の[[ベルガラ協定]]でカルリスタ側の敗北が決定した。スペイン政府は行政改革の一環として[[スペインの県|県]]の設置を進めており、ナバラ王国に相当する領域にはナバラ県が設置された。1841年にはナバラ特権政府の代表が妥協法に署名してフエロが撤廃され{{Sfnp|Collins|1990|p=275}}、数百の町がスペインに統合されて特権法憲章が制定された<ref name=subete62>ナバラ州政府(2005)、p.62</ref>。関税境界がバスクとスペインの境界(エブロ川)からスペイン・フランス国境(ピレネー山脈)に移動に移転すると、ピレネー山脈を挟んだナバラの貿易の慣習が崩壊し、税関を経由しない[[密輸]]が台頭した。ビスカヤ県やギプスコア県とは異なり、ナバラ県ではこの時期に製造業が発展せず、基本的には農村経済が残っていた。国内の不安定な政治情勢の中、1870年代の第三次[[カルリスタ戦争]]中には[[エステーリャ]]を首都としてバスク政府が設立されたが、[[アルフォンソ12世 (スペイン王)|アルフォンソ12世]]のスペイン王権の復興と反撃によってカルリスタの敗北が決定し、戦争後のスペイン政府の中央集権化の政策はナバラに大きな影響を与えた。1893年から1894年にはパンプローナ中心部でガマサダと呼ばれる民衆蜂起が起こり、1841年の特権規定や1876年の財政保証廃止などのマドリード政府の決定に抵抗した。アルフォンシノスと呼ばれる小規模な派閥を除き、ナバラのすべての政党は、ラウラク・バット(4つは1つ)を合言葉とする地方自治に基づいた新たな政治的枠組みの必要性について合意した。
 
=== 近代・現代 ===
[[Image:NafarForuak.JPG|thumb|right|200px|1890年代のガマサダ後に[[パンプローナ]]に建てられた記念碑]]
 
カルリスタがカルリスタ戦争に敗北すると、バスク地方の他地域では[[バスク・ナショナリズム|バスク民族主義]]が台頭したが、ナバラでは状況が異なった<ref name=bard281282>バード(1995)、pp.281-282</ref>。ナバラでは敗戦後もカルリスタの影響力が大きく、フエロの存続を大義として保ち、1936年までは一定の政治力を発揮した<ref name=bard282284>バード(1995)、pp.282-284</ref>。1931年にバスク地方が提出したエステーリャ憲章(バスク自治憲章案)は、カトリックを中心に据えたために共和国議会で同意が得られなかった。1933年に再度作成されたバスク自治憲章案はカトリックを中心に据えず、アラバ県・ビスカヤ県・ギプスコア県の住民投票で承認されたが、ナバラ県では反対票が過半数に達した。1931年から1939年の[[スペイン第二共和政|第二共和政]]下では左派と右派の勢力の分裂が続き、スペイン国内は政治的に混迷を極めた。1933年10月には数千人の労働者が裕福な地主の土地を占領し、地主は労働者に怨恨の念を抱いた<ref>{{cite book | author=Paul Preston | title=The Spanish Holocaust: Inquisition and Extermination in Twentieth-Century Spain. | publisher= HarperCollins | location= London, UK | isbn=978-0-00-638695-7 | year=2013 | page=182}}</ref>。1936年7月18日には[[エミリオ・モラ]]将軍がパンプローナで反乱を起こし、3年に渡る[[スペイン内戦]]が勃発した。この軍事反乱後には、強硬派によって要注意人物に指定された個人に対するテロ活動が相次ぎ、進歩的な共産主義者に加え、軽度の共産主義者や、政権にとって単に不都合なだけの人物でさえもテロの対象となった<ref>Preston, P. 2013, p. 179-181</ref>。特にナバラ南部のエブロ河岸に沿った地域で大規模な粛清が行われ、ファシスト風敬礼に適応した聖職者らは自発的に謀略に加担し、また要注意人物殺害の任務にさえ関与した<ref>Preston, P. 2013, p. 182-184</ref>。少なくとも2,857人が殺害され、さらに305人が虐待や栄養失調などの理由により刑務所で死亡した<ref>Preston, P. 2013, p. 183</ref>。死者は集団墓地に埋められるか、ウルバサ山などの中央丘陵地にある峡谷に廃棄された。[[バスク・ナショナリズム|バスク民族主義者]]はより劣った地に追い払われ、エステーリャ市長であり[[CAオサスナ]]の共同創設者だったフォルトゥナト・アギーレは1936年9月に死刑に処された。パンプローナは1937年4月以降の北方作戦時に、反乱軍の作戦開始地点となった。
 
スペイン内戦後の1939年には[[フランシスコ・フランコ]]による独裁政権が成立し、アラバやナバラは内戦時の支援の報酬として、フエロを想起させる特権の数々の維持が認められた<ref name=eusko>{{cite web |url= http://www.euskomedia.org/aunamendi/97937/142976 |title=Navarra. Historia: Franquismo|author=<!--Staff writer(s); no by-line.--> |date= |website=Auñamendi Eusko Entziklopedia|publisher= EuskoMedia Fundazioa|accessdate=16 September 2014}}</ref>。内戦後には物資の欠乏、飢饉、密輸などが深刻化し、経済は小麦、ブドウ、オリーブ、大麦などの農業に依存し、人的移動は負の方向に傾いた。戦争の勝利者はカルリスタとファランヒスタというふたつの主要な派閥に群れをなした<ref name=eusko/>。一方、[[ウルトラモンタニズム|教皇至上主義]]の環境は宗教団体に肥沃な土壌を提供し、[[オプス・デイ]]は1952年にパンプローナに[[ナバラ大学]]を設立してより大きな影響力を持った。1950年頃にはギプスコア県やビスカヤ県のように工業誘致を行い、化学工業、製紙業、製鉄業、鉄鋼業などの企業がナバラ県に進出した<ref name=bard305309>バード(1995)、pp.305-309</ref>。ナバラ県第一の産業は農業から工業に入れ替わり、1950年からの20年間で、農業従事者割合は55%から26%に低下した<ref name=bard305309/>。特にパンプローナの人口・企業増加が大きく、1978年にはナバラ県全体の45%の人口と60%の企業を集めていた<ref name=bard305309/>。フランコ政権末期の民主化準備段階において、ナバラ県では[[バスク祖国と自由]](ETA)、警察、県が後援する民兵組織による暴力活動が行われ、その風潮は1980年代以降まで続いた。
 
1975年の[[フランシスコ・フランコ]]死後にスペインが民主化の時期を迎えると、ナバラ県の地方政府と良好な関係を保っていた政治家は[[アドルフォ・スアレス]]が率いる[[民主中道連合]](UCD)に参加したが、1979年にはハイメ・イグナシオ・デル・ブルゴとヘスス・アイスプン・トゥエロを主導者として [[ナバーラ住民連合|ナバラ住民連合]](UPN)が設立され、民主的な[[スペイン1978年憲法]]で規定された過程への参加を拒否し、地方特権の維持を主張した。この一方で、アラバ県・ビスカヤ県・ギプスコア県は[[バスク・ナショナリズム|バスク民族主義者]]や左派政党が主流であり、1978年の[[ゲルニカ憲章]](バスク自治憲章)でナバラ県も含めた4県での自治州の設立を謳っていたが、ナバラ住民連合は[[バスク自治州]]への参加を拒否し、住民投票でも反対が過半数に達した。ナバラ県政府は1982年に独裁時代の制度的枠組みを引き継いだ自治憲章を策定し、ナバラ県単独でのナバラ州が成立した。バスク民族主義者や少数派の進歩的な勢力が要求した改革は住民投票によって批准されなかった。
 
== 政治 ==
[[File:Parlement_Navarre_2011.png|thumb|right|200px|ナバラ州議会の議席分布(2011年-)]]
 
[[フランシスコ・フランコ]]独裁政権の終焉後、1982年にナバラ自治州憲章が制定され、ナバラ県は17[[スペインの地方行政区画|自治州]]のひとつとなった。教育、社会サービス、住宅開発、都市開発、環境保護などがナバラ州の政治機関の責任下に置かれている。また、17自治州のうち15自治州では中央政府が徴税した税金の一部を各自治州に分配しているが、ナバラ州と[[バスク自治州]]は各県に徴税権があり、その一部が国庫に納められる<ref>萩尾生・吉田浩美『現代バスクを知るための50章』明石書店、2012年、pp.151-155</ref>。他の自治州同様に、ナバラ州議会は4年ごとに州議員選挙を行っており、議会の多数派がナバラ州政府を担当する州首相を決定する。1979年には、国民同盟(AP、[[国民党 (スペイン)|国民党]](PP)の前身)と提携する地方政党である[[ナバーラ住民連合|ナバラ住民連合]](UPN)のハイメ・イグナシオ・デル・ブルゴが初の首相に選出されたが、70議席中9議席を獲得した[[バスク・ナショナリズム|バスク民族主義]]左派政党も一定の強さを示した<ref name=bard305309/>。1980年には[[民主中道同盟]](UCD、後に解散)から、1984年には[[スペイン社会労働党]](PSOE)のナバラ支部である[[ナバラ社会党]](PSN)から州首相が選出された。ナバラ社会党は7年間にわたって州首相の座を維持し、1991年からの4年間はナバラ住民連合が、1995年からの2年間はナバラ社会党が州首相の座を担ったが、1996年にはナバラ住民連合が州首相の座を奪い返し、その後は継続してナバラ住民連合が政権を担っている。現在の州首相は2011年にナバラ住民連合から選出されたジョランダ・バルシーナ(女性)である。右派のナバラ住民連合と左派のナバラ社会党に加え、[[バスク・ナショナリズム|バスク民族主義]]を標榜する政党もかなりの得票を得ており、北部のいくつかの地域ではこれらの政党が多数派である。これらの政党はナバラ州とバスク自治州の合併を指針に挙げているが、スペインにあるすべての政党同様に、ナバラ社会党もナバラ住民連合もこの動きに反対している。
 
{| class="wikitable"
! colspan=5| ナバラ州首相
|-
! # !! 期間 !! 名前 !! 出身政党 !! 備考
|- bgcolor=#DDEEFF
| 1 || 1979-1980 || ハイメ・イグナシオ・デル・ブルゴ || [[ナバーラ住民連合|ナバラ住民連合]](UPN-AP) || ナバラ県首相
|- bgcolor=#DDEEFF
| 2 || 1980-1984 || フアン・マヌエル・アルサ・ムニュスリ || [[民主中道連合]](UCD) || 任期中にナバラ州成立
|- bgcolor=#DDEEFF
| 3 || 1984 || ハイメ・イグナシオ・デル・ブルゴ || [[ナバーラ住民連合|ナバラ住民連合]](UPN-AP) ||
|- bgcolor=#FFE8E8
| 4 || 1984-1991 || ガブリエル・ウライブル || [[ナバラ社会党]](PSN-PSOE) ||
|- bgcolor=#DDEEFF
| 5 || 1991-1995 || フアン・クルス・アリ || [[ナバーラ住民連合|ナバラ住民連合]](UPN-PP) ||
|- bgcolor=#FFE8E8
| 6 || 1995-1996 || ハビエル・オターノ || [[ナバラ社会党]](PSN-PSOE) ||
|- bgcolor=#DDEEFF
| 7 || 1996 || フアン・クルス・アリ || [[ナバラ民主主義者統一]](CDN) ||
|- bgcolor=#DDEEFF
| 8 || 1996-2011 || ミゲル・サンス・セスマ || [[ナバーラ住民連合|ナバラ住民連合]](UPN-PP) ||
|- bgcolor=#DDEEFF
| 9 || 2011- || ジョランダ・バルシーナ || [[ナバーラ住民連合|ナバラ住民連合]](UPN) || 女性首相
|}
 
== 経済 ==
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== 社会 ==
=== 言語 ===
[[File:Navarra - Mapa densidad euskera 2001.svg|thumb|200px|right|地域別のバスク語話者の割合]]
 
[[スペイン語]]はナバラ州全域で公用語であり、[[バスク語]]もバスク語が話される地域では公的な地位を有している<ref name=parlamento>[http://www.parlamentodenavarra.es/home.aspx Parlamento de Navarra]ナバラ州議会</ref>。1986年、ナバラ州を言語によって3領域に分割する法律が制定された。「バスク語圏」ではバスク語が普及しており、スペイン語に加えてバスク語も公用語とされている。「混合圏」と「非バスク語圏」(スペイン語圏)では段階的にバスク語の公的認知が弱められており<ref name=parlamento/>、「混合圏」でもバスク語は公的な地位を得ているが、「非バスク語圏」では公的な地位を得ていない。このため、州北西部では広くバスク語が話されている一方で、南部では完全にスペイン語が話されている。州都の[[パンプローナ]]は二言語の混合地域である。2006年の調査では、州民の11.1%がバスク語話者であり、7.6%が能動的でないバスク語話者であり、81.3%がスペイン語の単一話者だった。バスク語話者が9.5%だった1991年の調査に比べて、バスク語話者の割合は増加している<ref name=IVInkesta>''IV. Inkesta Soziolinguistikoa'' Gobierno Vasco, Servicio Central de Publicaciones del Gobierno Vasco 2008, ISBN 978-84-457-2775-1</ref>。年齢別のバスク語話者割合は均質ではなく、35歳以上で低いのに対して、16-24歳では20%以上を記録している<ref name=IVInkesta/>。2011年の国勢調査によれば、バスク語話者は11.7%(63,000人)と微増した
<ref name=Vinkesta>{{cite web |url=http://www.euskara.euskadi.net/contenidos/informacion/argitalpenak/eu_6092/adjuntos/V.%20Inkesta.pdf |title=V Inkesta Soziolinguistikoa |author=<!--Staff writer(s); no by-line.--> |date=1 July 2013 |website=Eusko Jaurlaritza |publisher=Euskal Autonomia Erkidegoko Administrazioa Hezkuntza, Hizkuntza Politika eta Kultura Saila |accessdate=31 May 2014}}</ref>。
 
=== 教育 ===
1952年には[[ローマ・カトリック教会]]に属する[[オプス・デイ]]が、[[パンプローナ]]に{{仮リンク|ナバーラ大学|label=ナバラ大学|en|University of Navarra}}を創設した。ナバラ大学はパンプローナとサン・セバスティアンの2か所にキャンパスを有しており、経済学・経営学部は[[エコノミスト]]誌や[[フィナンシャル・タイムズ]]紙によって世界トップクラスの評価を受けている<ref name=navarrauniv>{{cite web |url=http://www.unav.es/facultad/econom/incoming |title=Incoming |author= |date= |work= |publisher=ナバラ大学 |accessdate=2014-11-05}}</ref>。医学部は前衛的な研究を行っており、2004年には[[腫瘍学]]・[[病理生理学]]・[[神経科学]]・生物医学の4ジャンルを合わせもつ応用医学研究センターが開設された<ref name=subete7680>ナバラ州政府(2005)、pp.76-80</ref>。ナバラ大学では人文科学や社会科学の研究も盛んである<ref name=subete7680/>。1987年にはナバラ州初の公立大学として、既存の高等教育機関を統合して[[ナバーラ州立大学|ナバラ州立大学]]が創設された<ref name=subete7680/><ref name=navarrapublicuniv>{{cite web |url=http://www.unavarra.es/conocerlauniversidad/history/origins-and-former-statutes |title=Origins and former statutes |author= |date= |work= |publisher=ナバラ州立大学 |accessdate=2014-11-05}}</ref>。ナバラ州立大学は革新的な学科構造を取り入れており、大学研究を企業発展につなげることを目標としている<ref name=subete7680/>。パンプローナと[[トゥデラ]]にはスペイン国立通信教育大学(UNED)のセンターが存在する<ref name=subete7680/>。
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== 脚注==
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==