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1957年11月14日、[[トロント]]で[[ディック・ハットン]]に敗れNWA世界ヘビー級王者から陥落。
[[1958年]]6月、世界各国を回り積極的に防衛を重ねた実績が認められ、[[NWA (プロレス)|NWA]]本部から[[インターナショナル・ヘビー級王座|インターナショナル・ヘビー級]]の初代王者]]に認定された。しかし、1958年8月27日 、[[力道山]]に敗れてインターナショナル・ヘビー級王座から陥落した。
 
[[1966年]]2月28日、日本プロレスに特別参加し、[[ジャイアント馬場]]の持つインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦。結果は馬場が2度目の防衛に成功。テーズから2ピンフォール取っての防衛は馬場の大きな勲章となった。
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[[1977年]]8月15日、前年に旗揚げされた[[メキシコ]]の[[ユニバーサル・レスリング・アソシエーション]]から、初代UWA世界ヘビー級王者に認定された<ref name="uwa-h">{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/mexico/uwa/uwa-h.html|title=UWA World Heavyweight Title|accessdate=2014-11-30|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>。[[1978年]]8月27日、[[カネック]]に敗れUWA王座陥落。
 
[[1980年]]9月、[[テネシー州]][[メンフィス (テネシー州)|メンフィス]]の[[コンチネンタル・レスリング・アソシエーション]]にて[[ビル・ロビンソン]]のCWA世界ヘビー級王座に連続挑戦<ref>{{cite web|url=http://wrestlingdata.com/index.php?befehl=bios&wrestler=944&bild=1&details=7&liga=165&jahr=1980|title=The USWA matches fought by Lou Thesz in 1980|accessdate=2014-11-30|publisher=Wrestlingdata.com}}</ref>。同時期、CWAを外国人選手の供給ルートとしていた国際プロレスに特別[[レフェリー (プロレス)|レフェリー]]として度々来日。[[エキシビション#プロレスのエキシビション|エキシビション・マッチ]]も行った。[[1981年]]1月に開催された[[ルー・テーズ杯争奪戦]]の前期予選にも来日し、特別レフェリーを務めた
 
[[19811983年]]14月、国際[[全日本プロレスで開催された]]に来日。[[あすなろ杯争奪リーグ戦|ルー・テーズ杯争奪リーグ戦]]に特別の決勝戦([[越中詩郎]]VS[[三沢光晴]])のレフェリー (プロレス)|レフェリー]]としてを務めた。全日本にはこの時期数回来日し、[[エキシビショジャ#プロレスのエキシビション|エキシビション・マッチボ鶴田]]も行ったにバックドロップを伝授している
 
[[19831985年]]4919日[[全日本プロレス]]に来日し、ルー・テーズ杯決勝戦([[越中詩郎東京体育館|東京都体育館]]にて行われたアントニオ猪木VS[[三沢光晴藤波辰爾|藤波辰巳]][[IWGPヘビー級王座]]戦の特別レフェリーを務めた。全日本にはこの時期数回来日し、[[ジャンボ鶴田]]にバックドロップを伝授している
 
[[1985年]]9月19日、新日本プロレスに訪日し、[[IWGPヘビー級王座|IWGPヘビー級選手権]]試合:[[アントニオ猪木]]VS[[藤波辰爾|藤波辰巳]]戦([[東京体育館|東京都体育館]])の特別レフェリーを務めた。
 
[[1986年]]、右臀部を手術する。以後レスラーとしてはセミリタイヤ状態となった。
 
[[1987年]]11月16日、[[WWE|WWF]]の[[ニュージャージー州]]メドーランド大会でのオールドタイマーズ・[[バトルロイヤル]]に出場、決勝で[[パット・オコーナー]]をオーバー・ザ・トップロープで破り優勝(他の参加選手は、[[ジン・キニスキー]]、[[エドワード・カーペンティア]]、[[ボボ・ブラジル]]、[[クラッシャー・リソワスキー]]、[[キラー・コワルスキー]]、[[ニック・ボックウィンクル]]、[[レイ・スティーブンス]]、[[ペドロ・モラレス]]、[[アーノルド・スコーラン]]、[[アート・トーマス]]、[[チーフ・ジェイ・ストロンボー]]、[[マイケル・シクルナ|バロン・シクルナ]]、[[ジノ・ブリット]]、[[トニー・ガレア]]、[[レネ・グレイ]]、[[ドミニク・デヌーチ]]など)<ref>{{cite web|url=http://www.cagematch.net/?id=1&nr=9034|title=Events Database: WWF House Show|accessdate=2014-11-30|publisher=Cagematch.net}}</ref>。
 
[[1988年]]頃、[[セッド・ジニアス]]の弟子入りに伴い、[[バージニア州]][[ノーフォーク]]でレスリングスクールを開校。日本人でも[[北尾光司]](元[[横綱]]双羽黒)、[[蝶野正洋]]、[[田村潔司]]が入門するも、セッド・ジニアスからコーチ料を月額7000ドル、総額約1千万円も大金を取りながら、自分ではほとんど教えなかったという新人育成に関する問題が発生した。
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; [[フライング・ボディシザース・ドロップ]](''ルー・テーズ・プレス'')
: 詳細はリンク先を参照。
; [[リバース・スラム]](一種の[[パイルドライバー]])
: 一種の[[パイルドライバー]]。テーズのパイルドライバーは[[パワーボム]]の原型となったもので、高角度で抱えておいて落とすものであった。危険な技で日本では使用されることはなかったが、[[力道山]]がこの技を受けている。[[テリー・ゴディ]]にこの技を伝授し、ゴディはさらに改良を加えてパワーボムとして自らの必殺技とした。
; [[ステップオーバー・トーホールド・ウィズ・フェイスロック|STF]](Stepover Toehold with Facerock)](STF)
: 詳細はリンク先を参照。[[蝶野正洋]]に伝授し、蝶野は改良して自らの必殺技として定着させた。
; [[ヘッドロック]]
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== 外部リンク ==
* [http://www.onlineworldofwrestling.com/bios/l/lou-thesz/ Profile at Online World of Wrestling]
* [http://www.cagematch.net/?id=2&nr=930&gimmick=Lou+Thesz Profile at Cagematch]
* [http://wrestlingdata.com/index.php?befehl=bios&wrestler=944 Profile at Wrestlingdata]
* [http://members.at.infoseek.co.jp/drmick/proresu/waza/thez.htm ルー・テーズのバックドロップ]