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{{政治家
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''' ロナルド・アーネスト “ロン” ポール''' ('''{{Lang-en|Ronald Ernest "Ron" Paul'''}}, [[1935年]][[8月20日]] - ) は、[[アメリカ合衆国]]の元[[政治家]]。[[共和党 (アメリカ)|共和党]]所属で[[テキサス州]]選出の元[[アメリカ合衆国下院|連邦下院]]議員]]であった。2013年に引退した。
 
[[1974年]]に共和党から連邦下院議員へ立候補するも落選。その後[[1976年]]の補欠選挙で当選したものの、数ヶ月後の通常選挙で{{仮リンク|ロバート・ガメッジ|en|Robert Gammage}}に敗れる。その後、1978年に当選を果たし、3期にわたり下院議員を務めた。[[1988年アメリカ合衆国大統領選挙]]へ [[リバタリアン党 (アメリカ)|リバタリアン党]]から出馬するが、3位に終わる。
 
1996年に下院議員に再当選し以降、下院議員を務めており、任期は通算で10期目を数える。[[2008年アメリカ合衆国大統領選挙]]において、共和党の予備選挙に出馬したが、同党の大統領候補には指名されなかった。[[2012年アメリカ合衆国大統領選挙]]でも予備選挙に出馬している。2013年に引退した
 
== 政策 ==
政治的立場は[[立憲主義]]、[[小さな政府]]を基調としている。本来は小さな政府を推進する立場の共和党について、「[[大きな政府]]の党になってしまった」と言って批判している。下院議員としては、新たな支出や増税に対して一貫して反対票を投じている。医者であると[[ジェームズ・ボンド|007]]の映画から掛けて ''{{Lang|en|Dr. No}}'' というあだ名がついた。
 
その他に支持している政策の主なものは、州の自治権強化、市民の銃器の所持、[[自由貿易]]等。
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== 生い立ち ==
ロン・ポールは[[世界大恐慌]]のさなか、[[ペンシルベニア州]][[ピッツバーグ]]近郊のグリーン・ツリーに、ドイツ系[[ルター派]]移民の子孫だったハワード・キャスパー・ポールと、マーガレット・ポールの間に、5人兄弟の三男として生まれた。父のハワードは中学2年まで教育を受けたのち、兄弟のルイス・ポール、アーサー・ポールと共同でグリーン・ツリー牧場を営んでいた。ロンは5歳から父の農場で働き始め、その後新聞配達や薬局で働き、運転免許を取得した後には牛乳配達もする様になる。彼が牛乳配達していた客の中には、[[メジャーリーグ]]で活躍した[[ホーナス・ワグナー]]がいた。
 
ロンはドーモントのドーモント高校に入学し、[[1953年]]に優等で卒業する。在学中は様々なスポーツを行い、2年生のときにはペンシルベニア州の陸上競技大会2年生の部で200m走に優勝し、400m走では2位の成績を残した。また、レスリング部にも所属し、フットボールや野球も行い、生徒会長も務めた。
 
高校卒業後は[[ゲティスバーグ (ペンシルベニア州)|ゲティスバーグ]]にある[[ゲティスバーグ大学]]へ進学。初年度の学費を新聞配達やレモネード販売、芝刈りなどで稼いで賄う。その後、ゲティスバーグで郵便物や洗濯物の配達をする一方、大学の喫茶店でマネージャーを、更にラムダ・シ・アルファ男性社交クラブの給仕から支配人にまでなった。陸上競技チームを率いれば全額[[奨学金]]を支給するという申し出を受けたものの、在学中に膝に怪我を負ったせいで回復しても以前の様な成績を残せないと思い陸上競技を諦めることになる。もっとも、リハビリで水泳をし始めたことを切っ掛け契機として、大学の水泳部に所属することになった。
 
彼は、兄弟のうちの2人がルター派の[[聖職者]]になっていたこともあって一度は聖職への道を考えたものの、結局は医学の道に進もうと決心し[[デューク大学|デューク薬科総合大学]]に進み、[[1961年]]に[[博士(医学)|M.D.]]の[[学位]]を取得。1961年と1962年、[[研修医]]として[[デトロイト]]のヘンリー・フォード病院の内科で勤務し、その後 1965年から1968年にかけて[[ピッツバーグ大学]]の[[産婦人科]]で、同じく研修医として勤務した。
 
== 家族 ==
ポールと妻のキャロルは1957年2月1日に結婚した。キャロルがロンを、セイディ・ホーキンス・ダンスパーティ(女性が男性を誘うパーティ)に誘ったのが、最初のデートだった。彼らは別々の州にある大学に通っていたが、ずっと付き合っていた。そして二人はロンがゲティスバーグ大学4回生の時に結婚した。
 
彼らには、ロニー、ローリ、[[ランド・ポール|ランド]]、ロバート、ジョイの5人の子供がいる。また、18人の孫と孫が1人いる。デトロイトで研修医をしていた時期、キャロルは家の地下室でダンス教室を開いていた。ロバート、ランド、ジョイの3人の子供も、同じく医者になった。ランドは眼科、ロバートは家族医療の専門医である。連邦議員の父と同じく、娘のジョイは、産婦人科医である。ポールは、子供達が学部生や医学生の間、州の学生援助ローンを受けさせずに、代わりに学費を出していた。彼は同様に、[[議員年金]]に加入しなかった。彼は週末はいつも、レイク・ジャクソンにある自宅に帰っている。
 
ポールが14区で選挙運動をしていたとき、妻のキャロルは、夫に協力するため、ロンにポール家の家庭料理本を作り、それを選挙区民に配ることにした。その料理本は、ポール一家の写真で埋め尽くされていた。初版からかぞえて5版目が出版されている。彼女や他の家族は、夫の議会選挙戦のホームページに、「今週の料理」を掲載し続けている。
 
== 兵役と医師の経歴 ==
ポールの医学訓練は、[[アメリカ空軍]]の[[キューバ危機]]の時の[[兵役]]によって中断された。彼は[[ベトナム戦争]]の最初の数年頃まで軍隊にいた。彼は[[ベトナム]]へは行かなかったものの、[[1963年]]から[[1965年]]まで現役兵として働き、[[大]]、[[パフラヴィー朝|イラン]]、[[エチオピア帝国|エチオピア]]、[[トルコ]]などに赴任した。1963年から1965年、彼はテキサス州[[サンアントニオ]]のケリー空軍基地の航空[[医官]]として、パイロットの耳鼻咽喉の治療にあたった。そして、1965年から[[1968年]]まで、ピッツバーグでの[[研修医]]の傍ら、[[空軍州兵]]に従事した。彼は空軍時代には、[[大尉]]に任命されている<ref>{{cite web |url=http://www.willpete.com/military_service.htm |work=Personal email correspondence of Bruce K. Melson |title=Military Service: Members of the 106th Congress |publisher=Will Pete |date=October 2000 |accessdate=2011-09-07}}</ref>
 
医大を離れて2年後、ポールは[[サンアントニオ]]にある教会病院の[[救急救命室]]で、時給3ドルで働いた。そののち彼は産婦人科医として、4000人もの赤ん坊を取り上げた。彼は[[ブラゾリア郡 (テキサス州)|ブラゾリア郡]]では唯一の[[産婦人科]]医で、とても忙しく、[[テキサス州]]レイク・ジャクソンの退職医師の仕事を奪うことになってしまった。彼は医師だった時は、「私は月に40から50人の赤ん坊を取り上げ、また数多くの手術もした。」と語っている。彼は決して[[メディケア]](高齢者向け[[医療保険制度]])や、[[メディケイド]](低所得者と身障者の医療扶助制度)の制度を受けつけない医師であったが、その代わりに、金銭に困っている患者には、無料や割引料金で治療したり、また分割払いに応じた。
 
== 議員時代:前期 ==
数年間、ロンポールは地元で[[医師]]として働いたが、[[1971年]][[8月15日]]に[[リチャード・ニクソン]]大統領が、[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]の[[金本位制]]からの完全な脱却を宣言([[ニクソン・ショック]])したことを動機として政界入りを決心した。彼は「その日から全ての[[貨幣]]は、もはや本来の価値によって決まるのはなく、政治によってその価値が決まることになるだろうと思い、私は愕然としたんだ。」と言っている。
 
やがて[[1974年]]の[[中間選挙]]で[[テキサス州]]22区の候補者として共和党から出馬したが、現職の民主党のロバート・R・ケーシーに敗北を喫した(この時の選挙は[[民主党 (アメリカ)|民主党]]候補者が大勝した選挙であった)。その後1976年4月に[[ジェラルド・R・フォード]]大統領がケーシーを連邦海事委員会の長官に任命したため、後任を選出するための[[補欠選挙]]が行われ初めて議席を得る(選挙区始まって以来の共和党議員でもあった)。しかし同年に行われた大統領選では予備選の段階において[[ロナルド・レーガン]]を支持(現職議員の中でもレーガンを支持したのはロンを含めて4人だった)、全国党大会でテキサス代表団がレーガンを支持する様に働きかけた。結局、6ヶ月後の[[通常選挙]]では僅か300票差で民主党のロバート・A・ガメージに議席を奪われた。1978年の選挙で雪辱を果たし、1980年と1982年の選挙でも再選を収めた。議員在職中にも月曜日と土曜日には産婦人科医として勤務し、自らが[[憲法|違憲]]だと思った法案には賛成票を投じなかったことから ''{{Lang|en|Dr. No}}'' と言う評判を集めていた。
 
ポールは、アメリカ連邦議会で、において1970年代で初めて下院での任期制限法を提案した議員で、彼自身、4期の任期中視察旅行への参加や議員年金への登録を辞退していた。また彼は[[インフレーション]]率に応じて議員給与を下げようと提案していた。1980年、共和党員の大多数が賛成していたカーター大統領の徴兵登録制度を復活するという提案に対して、ポールは、彼らの見解の矛盾を指摘し、まこれは[[ウォールストリート・ジャーナル]]の記事によるが、と「彼らは銃を登録するより子供達を登録したがるだろうと言った。
 
この頃ポールは下院金融委員会の一員で、彼だったポールは連邦準備金制度がインフレを引き起こしたのだと考えていており、この制度を非難していた。彼はまた、1980年代の貯蓄貸付危機の対策に考えられていた銀行制度の規制解除にも反対していた。1982年に下院によって作られた、アメリカ金委員会は彼の提案によるが、この委員会から引き出された彼の結論は、[[ケイトー研究所]]から出版された、"{{Lang|en|The Case for Gold}}" (金の正当性)に書かれている。1978年から1982年にかけてのポールのスタッフのリーダーは、ルー・ロックウェルである。ポールは毎年恒例の連邦議会の野球大会の常連メンバーだった。
 
ポールは1984年の[[アメリカ合衆国上院]]の共和党[[予備選挙]]で、フィル・グラミーに敗れた。彼は下院での再選ではなく、[[上院]]での活動を選んだのだが、結果彼は1985年に議会を去って医療の世界に戻ることになり、彼の議席は、テキサス州下院の議員だった[[トム・ディレイ]]が引き継いだ。辞任演説でポールは、「我が国の憲法の制定者は、広く市民の幸福を目的としていたが、今や特定の人々の利益が目的となっている。ここでは票の取引が正当な施策としてまかり通っている。お使い坊やの議員達は凡庸な人種なのに、自由の擁護者は変人と思われている。真の自由を愛し、州の権力が強大になることを否定し、本物の皮肉屋を残さない者にとっては困難だ。」と語った。
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== 議員時代:後期 ==
===選挙運動===
1970年代に経験したよりも厳しい戦いのあと、ポールは、1996年に下院議会に帰ってきた。当時は1994年の選挙で共和党が上下両院で勝利した後だったのでため、彼は議会で以前よりも有意義に活躍できるだろうと期待していた。共和党候補者選出選挙での彼のライバルは、グレッグ・ラフリンで、彼は共和党内の指導者層から支援されていた。その中には、議会議長の[[ニュート・ギングリッチ]]や、当時テキサス州知事だった[[ジョージ・W・ブッシュ]]がいた。現職のラフリンは、1年前に民主党から共和党に移党しており、[[共和党全国委員会]]は、他の民主党員が彼に倣って移党することを期待して、ラフリンを全面的に支援した。こういった全国委員会や[[全米ライフル協会]]といった支持組織の努力にも関わらず、挑戦者だったポールがこの予備選挙に勝利した。非現職から議員に返り咲いたのは、彼にとって3度目である。
 
ギングリッジや他の共和党の指導者達は、ラフリンのために、選挙区を訪れて遊説を行っていたが、一方ポールは、ラフリンが移党する14ヶ月前の、ラフリンの投票記録に対するギングリッジの厳しい批判を引用した新聞広告を掲載していた。ポールの友達であり、野球投手で選挙区民の[[ノーラン・ライアン]]は、名誉選挙事務長を務め、ポールのために広告に登場し、さらに、税務活動家のスティーブ・フォービスも彼を支援した。今回ポールは、以前出馬した22区ではなく、沿岸側の下院14区で選出された。この変更は、選挙区が再区画された結果で、ポール自身は、同じレイク・ジャクソンの家に住み続けている。
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1998年、彼は、対立候補の70万ドルに対し210万ドルと、選挙資金獲得でも大差を付け、党内予備選挙と続く本選挙に勝利した。対立候補は民主党の米農家で前[[マタゴルダ郡 (テキサス州)]]判事のロイ・スニーリーで、ポールは「スニーリーを疑問視しよう!」と有権者に警告する広告を出し、11%差で勝った。ポールはスニーリー判事が、自身の給料の5%アップ(判事達の旅費予算の400%アップを含む)する議題に賛成票を投じたこと、そして、新たな政府機関を作り、それに自動車の[[ナンバープレート (自動車)|ナンバープレート]]の登録料を管理させる法律を制定したことで、官僚の人数を増やしたことを非難した。それに対してスニーリーの協力者は、彼は郡職員の「生活費」としての給料を5%上げることに賛成しただけだと主張した。ポールは、自分は議員の給与引き上げには、一度も賛成したことはないと反撃した。
 
2000年、スニーリーはポールに再び挑戦したが、ポールは60%もの投票を得、選挙資金でもスニーリーの110万ドルに対し、240万ドルを得て、選挙に勝利している。ポールは2002年、2004年(対立候補なし)にも再選し、10期目を迎えた2006年では、対立候補の60万ドルに対し120万ドルと、選挙資金でもはるかに上回っている。2008年の選挙では、共和党予備選挙で二人の対立候補(ポールに解雇された以前の側近であるエリック・ドンデロと、フレンズウッド市の市議会議員のクリス・ペデン)がいたが、ポールは勝利した。
 
==2008年アメリカ合衆国大統領選挙==
===インターネットでの人気===
ポールは5つの共和党の大統領候補討論会に参加し、そのうちの4つの討論会で、討論会のインターネット投票、もしくは携帯メール投票の票数で、勝利している。第一回の討論会を終えて、[[ABCニュース (アメリカ)|ABCニュース]]は、インターネットでのポールの確固たる存在について、「彼の支持者は、バイラル・マーケティング(=口コミ宣伝)の仕組みを熟知している。長期的な視点で大統領選挙運動を捉えており、インターネット調査やブログを開設することで、少なくとも、今の時流を認識している。」と述べている。雑誌[[USニューズ&ワールド・レポート]]は、彼の増加するインターネットでの人気を、「ポールの支援者はインターネットに集結していて、彼らの熱意によって、どのインターネット情報の統計でも、ポールは、はるかに有力な候補者達に混じって、姿を現している。[[USAトゥディ]]新聞はポールを、『ネットの申し子』と呼んでいる。
 
[[テクノラティ]]、ヒットワイズ、[[アレクサ・インターネット]]といった、[[ブログ圏]]での人気を比べることができるネット検索エンジンによると、ポールの名前は、インターネットでよく検索される言葉の上位にランキングされることからも、インターネットでの彼の知名度の高さが確認できる。それは彼の支持者が意識的にアクセスしてポールのランキングを上げており、その統計は正しくない、という意見もあるが、テクノラティ社の広報のアーロン・クレーンは、ポールのネット検索での多さは、技術的に最善の方法を用いた正確な統計によるものだと、断言している。ポールは、[[YouTube]]において、全大統領候補者の中で、自分が一番のアクセス件数(430万以上)であり、2007年5月20日時点で、メールマガジンの登録者数でもトップを獲得し、それは[[バラック・オバマ]]をも上回ると、自身で発表している。ポールのYouTubeチャンネルのアクセス数は、常にトップ40圏内に位置し、2007年9月27日時点での視聴者は2万9000人に達する。
==2012年アメリカ合衆国大統領選挙==
{{更新|section=1|date=2013年7月12日 (金) 12:34 (UTC)}}
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==政治的立場==
ポールのニックネーム ''Dr. No'' は、彼のM.D.としての肩書きと、それから『提案された法案が、明確に、合衆国憲法に沿ったものでない限り、決して賛成票を投じない』という、彼の強固な態度に由来している。また、''Mr. Republican''とも称されている。ポールは[[オーストリア学派]]の経済哲学を信奉している。これは、中でも特に、貨幣供給に対する政府の統制は、結果的に経済的非効率と通貨不安を引き起こす、という学説を持つ。ポールはこの考えについて、6冊の本を書いている(その自著の小論で、自分は[[オーストリア学派]]の理念を実現するために政治家になったとさえ記している)。
彼は、オーストリア学派の経済学者、[[フリードリヒ・ハイエク]]、[[マレー・ロスバード]]、[[ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス]]の3人の写真を([[グロバー・クリーブランド]]の写真とともに)、事務所の壁に掲げている。
 
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ポールは通常、[[公共投資]]やイニシアティブ(住民投票制度)、[[租税]]に関しては、ほとんど全ての提案に反対票を投じている。1995-1997年の任期中に投じられた単独の反対票のうち、3分の2は彼によるものである。彼は、決して税金は上げないと誓約し、赤字予算に賛成したことは一度もないと述べている。ポールは、政府の財政基盤は主に消費税と(自由貿易)関税によって賄うこととし、政府の予算を2000年度の支出水準の規模に縮小することで、税制の中立性を保ちながら、個人に対する[[所得税]]を廃止できるだろうという信念を持っている。彼は、個人の生活や、諸外国及び国内の機能に対するアメリカ政府の役割を、大幅に減少すべきだと思っている。彼は共和党は[[小さな政府]]という誓いを忘れ、大きな政府のための政党になってしまっていると言っている。ポールは、[[アメリカ合衆国内国歳入庁|内国歳入庁]]、[[アメリカ合衆国教育省|教育省]]、[[アメリカ合衆国エネルギー省|エネルギー省]]、[[アメリカ合衆国国土安全保障省|国土安全保障省]]、[[アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁|連邦緊急事態管理庁]]、[[州際通商委員会]]といった連邦政府機関を、必要のない役所仕事だと言って、これらの大部分の廃止を主張している。また彼は、[[銀本位制]]や[[金本位制]]といった兌換紙幣に賛成している。また、[[自由貿易]]が[[金利]]と貨幣供給を決定した時経済の不安定さは減少するのであり、また、国債は政府の支出に応じて発行されていて、連邦準備制度は、抑制のない膨張した貨幣供給を政府が行うのを許可してしまっている、といった理由から、[[連邦準備制度]]中央銀行の段階的廃止を提唱している。
 
ポールは、州権、[[]]の所有、政治犯に対する[[人身保護令状]]、陪審による法の無視の権利、自主的な又は非公式の学校内礼拝を認める[[憲法改正]]、などを支持している。彼はまた、労働者の[[社会保障制度]]からの脱退の許可、医療の分野における自由市場の拡大、[[公害]]防止に対する私的所有権の認知、投票用紙への党・候補者名記載の増進に賛成している。ポールが反対しているものは、[[麻薬]]撲滅キャンペーン、社会医療制度、[[福祉国家論]]、海外援助、[[司法積極主義]]、連邦による[[死刑制度]]への干渉(彼は死刑制度自体には反対の立場である)、結婚・教育に対する連邦の規制、インターネット・ギャンブルの禁止である。そして彼は、同性愛者の行為と同様に異性愛者も含んだ破滅的な性嗜好に注目した問題に対して、軍の“聞かざる・言わざる政策“の施行廃止を支持している。彼は、未婚夫婦や同性カップルによる[[養子縁組]]に対しての政府の補助金制度に反対票を投じた。ポールは自身を、中絶に対する”ゆるぎない反対者“だと言っており、母体及び胎児の健康に対する医学的判断の規制は、”国家レベルの最高位の取り扱い事項だ“という信念を持っている。また[[ウィキリークス]]に対しても、「もっとウィキリークスが必要だ」と擁護する発言をしている。
 
== 著書 ==
* 他人のカネで生きているアメリカ人に告ぐ ―リバータリアン政治宣言― ([[副島 隆彦]](監修・翻訳)、佐藤 研一朗(翻訳)成甲書房、2011年、ISBN 4880862746 )
* ロン・ポールの連邦準備銀行を廃止せよ(副島 隆彦(監修・翻訳)、佐藤 研一朗(翻訳)成甲書房、2012年、ISBN 4880862916)
 
==脚注==
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== 関連項目 ==
* [[オーストリア学派]]
* [[リバタリアニズム]]
* [[小さな政府]]
* [[ティーパーティー運動]]
* [[ピーター・シフ]]
 
== 外部リンク ==
{{commonsCommonscat|Ron Paul}}
* {{CongBio|P000583}}
* [http://www.ronpaul.org/ Ron Paul's personal website], books, articles, links to political sites connected with Ron Paul
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{{S-end}}
 
{{DEFAULTSORT:ほる ろん}}
[[Category:テキサス州選出のアメリカ合衆国下院議員]]
[[Category:アメリカ合衆国大統領候補者]]
182 ⟶ 180行目:
[[Category:アメリカ合衆国の医師]]
[[Category:アメリカ合衆国の死刑廃止論者]]
[[Category:アメリカ合衆国のプロテスタントの信者]]
[[Category:バプテスト派の信者]]
[[Category:ドイツ系アメリカ人]]
[[Category:ペンシルベニア州の人物]]