「徳川重好」の版間の差分

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[[延享]]2年([[1745年]])2月15日、第9代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家重]]の次男として生まれる。[[幼名]]は'''萬二郎'''。当初は[[松平氏|松平姓]]を称した。
 
将軍となった兄の[[徳川家治]]は[[宝暦]]10年([[1760年]])から[[明和]]7年([[1770年]])までに清水屋敷を11回、家治正室の[[倫子女王|五十宮]]も2回訪問しており、兄弟の仲は良好であったとみられる。しかし、家治治世の後半になると、[[徳川治済|一橋治済]]の待遇上昇とともに地位が逆転していった。[[安永]]8年([[1777年]])に将軍世子の[[徳川家基|家基]]が死去すると、治斉の長子の豊千代([[徳川家斉]])が[[天明]]元年([[1781年]])に家治の養子となった。そして天明6年([[1786年]])に家治が死去すると、家治の最近親(家治の弟)の重好を差し置いて、家斉(家治の従弟の子)が将軍に就任した<ref>渡邉直子「『徳川実紀』に見る三卿の位置」2007年3月(『駒澤史学68』)</ref>。
 
[[天明]]8年([[1788年]])5月、[[御庭番]][[高橋恒成]]は[[清水徳川家]]に関して、「御取締り宜しからず候由」と報告書を記している。具体的には、家臣の[[長尾幸兵衛]]が清水家の財政を私物化していると指摘している。また『[[よしの冊子]]』では、長尾は3万両を[[田沼意次]]に献金し、重好を将軍職に就けようと目論んだと示唆している。