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* [[1900年]]、[[ヨーロッパ]]各地(ドイツ、オーストリアなど)を視察した。このとき[[ウィーン]]の駐在武官と喧嘩をして[[サーベル]]で斬りつけられて負傷、この傷痕は眉間に生涯残っていたという<ref>[[本田靖春]]『現代家系論』p.102([[文藝春秋社]]、[[1973年]])</ref>。
 
*多趣味で、何かに興味を持つと、それに関する[[本]]を集める癖があった。そのため、自宅は[[図書館]]のようであったという。
 
*「[[勉強]]は自主的に行うもの」という信念を持っており、強いることは一切しなかった。教え子や子どもらにはいつも「学校の成績のために学ぶのは、実に愚かしいことだ。自分が好きな学問を、広くかつ深く学びなさい」と言い聞かせたという。
 
* 京都帝国大学に地球学団を組織し、[[機関紙|機関誌]]『地球』を主宰。[[日本列島]]の地質二重構造説、[[日本アルプス]]の低地氷河存在説などを発表した。大学での渾名は「雷親爺」。晩年は刀剣の蒐集に凝っていたが、その大半は無価値な贋物だったといわれる<ref>[[本田靖春]]『現代家系論』p.103([[文藝春秋社]]、[[1973年]])</ref>。