「スウェーデンの歴史」の版間の差分
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スカンディナヴィアには北ゲルマンの諸部族の小王国が乱立していたが、次第にスウェーデン、デンマーク、ノルウェーの3王国に収斂されて行った。彼らは[[ローマ人]]や[[フランク王国]]から「北の人(「ノルマンニ」あるいは「[[ノルマン人]]」)」と呼ばれ、船団、艦隊を組織し、[[バルト海]]から[[北海]]沿岸での交易、略奪を行った。特に略奪を行うノルマンニは「[[ヴァイキング]]」と呼ばれ、[[9世紀]]にはその剽悍、野蛮を怖れられた([[捕虜]]となった人々を[[奴隷]]としてイスラム世界等に輸出するする等、北欧社会にも[[奴隷貿易]]や[[奴隷制]]は存在した。なお、スウェーデンとその王国領であったフィンランドの奴隷制は、[[1335年]]に「[[キリスト教徒]]の両親によって生まれた奴隷」が事実上、全て本土において廃止された<ref>別頁、「[[奴隷制度廃止運動]]」の-[[奴隷制度廃止運動#各国の奴隷制度が廃止された年代]]-から。なお全ての奴隷制廃止は、[[植民地]]で[[1813年]]、国によって自由を買われた奴隷で[[1847年]]。</ref>)。この時代は、[[西ヨーロッパ]]に比べると、スカンディナヴィアは[[中世前期|中世初期]]の歴史について記述による証拠に乏しく、[[スカルド詩]]による口述の伝統を選んだため、最初の法典や歴史が編集されたのは[[12世紀]]になってからであった。その中でヴァイキング時代の痕跡を残したものとして絵画石碑や[[ルーン石碑]]があった。特にルーン石碑は、[[10世紀]]、[[11世紀]]につくられ、[[ルーン文字]]で刻まれている。ルーン文字を使った[[古ノルド語]]の碑文は北[[ドイツ]]の[[ヘーゼビュー]]、[[ロシア]]・[[ウクライナ]]([[ルーシ]])、[[グリーンランド]]、北部[[スコットランド]]、[[マン島]]、[[イングランド]]、[[アイルランド]]の各地で見つかっており、[[イスタンブル]]の[[モスク]]にもルーン文字の[[彫刻]]が見られる。
彼らのなかにはデンマーク・ノルウェー・ヴァイキングのように[[アイスランド]]からグリーンランド、さらに[[アメリカ大陸]]に到達、植民したものもいたが、スウェーデン・ヴァイキングは主に東方へと進出し<ref>百瀬、熊野、村井、p34 - p35。</ref>、[[ドニエプル川]]、[[ヴォルガ川]]を遡り、[[東ローマ帝国]]や[[イスラム世界]]と交易などの接触を持った(それ以前に[[バルト海]]を掌握していた可能性もある。特にスウェーデンでは、遠距離交易の要素が強く、現在の[[ラトビア]]における[[リヴォニア]]沿岸に[[7世紀]] - [[8世紀]]のスウェーデン系及び[[ゴットランド島|ゴットランド]]系人の定住地跡が発掘され、交易上・軍事上の拠点としてあったと考えられている)。またロシア平原に定住し、8世紀から11世紀までに[[ノヴゴロド公国]]や[[キエフ大公国]]など[[ルーシ]]諸国の建国者となった。[[東スラヴ人]]側からの伝記では、彼らは「[[ヴァリャーグ]]」と呼称されているが、これがスウェーデン・ヴァイキングであるかは定かでない。少なくとも彼らが[[ゲルマン人]]の一派である事は確認されている。
最古のヴァリャーグの国家は、現在のロシア北部にあったとされる、8世紀後半から9世紀の半ばにかけて成立した[[ルーシ・カガン国]]で国家または[[都市国家]]群であり、[[ノース人]]の他、[[バルト人]]、[[スラヴ人]]、[[フィン人]]、[[テュルク系民族]]などで構成されていた。8世紀半ばに最初のスカンディナヴィア系の人々が[[移住]]を始めた。これらの移住先の街は、[[古ノルド語]]で「{{仮リンク|ガルダリキ|en|Gardarike}}(''Garðaríki''、砦の国)」と呼ばれるようになった。ルーシ・カガン国の存在は幾つかの文献と、[[1820年]]から行われた[[スタラヤ・ラドガ|ラドガ]]と北部ロシアの関連集落の発掘調査から確認されているものの、ルーシ諸国の建国は、このルーシ・カガン国の衰退後であり、その最期は不明である。
このようにヴァイキングとして各地に探検、植民をしてきたが、彼らの発祥の地であるスカンディナヴィア半島東では9世紀頃からスヴェア人の王国が建国され、[[自然崇拝]]による祭祀が営まれた。[[10世紀]]には[[キリスト教]]が伝来し、幾分の抵抗をともないながらも受容されて行った。しかしスウェーデンは、北欧では最も遅くまで[[異教]]の影響が残った。異教の王として[[スヴェアランド]]を支配した最古のスウェーデン王は、[[ユングリング家]]の[[エリク6世 (スウェーデン王)|エリク6世]]勝利王であったと言われ(古代の王や、[[北欧神話]]に登場するスウェーデン王がいたとされるが、その多くは各部族の王か、伝承や伝説上のもの)、スウェーデンの政治的統合体は、ヴァイキングの時代によってその原型が形成されたと言える<ref>百瀬、熊野、村井、p41 - p44。</ref>。また、最古のスウェーデン王の[[洗礼]]は、エリク6世の子[[オーロフ (スウェーデン王)|オーロフ・シェートコヌング]]の[[1008年]]頃<ref>百瀬、熊野、村井による『北欧史』年表27頁によれば、[[1000年]]頃。</ref>の[[西方教会]]の洗礼によるものだったが、完全なキリスト教化は12世紀半ばであった。宗教面、経済面、政治面で重要な中心地であるガムラ・ウプサラの大犠牲祭の司祭は王が務めることになっており、[[1164年]]に[[ガムラ・ウプサラ]]に大司教座が置かれるまでこの慣習が続けられた。スウェーデンのキリスト教化は、ガムラ・ウプサラに置かれたこの大司教座を中心として進められることとなる ビルカや[[ゴットランド島]]の[[ヴィスビュー]]は「[[ヴァリャーグからギリシャへの道]]」への起点でもあった。この交易路は、[[黒海]]や[[コンスタンティノープル]]、あるいは[[カスピ海]]へ至っていた水陸交易路であった。ヴァリャーグの伝説の王[[リューリク]]は[[862年]]にラドガを自身の都に定めたと伝えられている。ルーシの諸国はこのリューリクの後継者によって建国されたとスラヴ側の「[[原初年代記]]」は記している。またラドガは、10世紀及び11世紀のヴァイキングやスウェーデン、ノヴゴロド公国の動向が原初年代記や「[[サガ]]」などに文献として残った。ラドガの発掘品からもラドガが次第にヴァリャーグの街となっていったことが確認できている。
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