[[file:Benoit IX.jpg|thumb|right|ベネディクトゥス9世]]
'''ベネディクトゥス9世'''('''Benedictus IX'''、[[1012年]]頃 - [[1055年]]ないし[[1065年]]ないし[[1085年]])は[[ローマ教皇]](在位[[1032年]] - [[1044年]]、[[1045年]]、[[1047年]] - [[1048年]])。3回も就任退位と復位をを繰り返し前後3期にわたって在位した例外的な個性の強い[[教皇]]である。
貴族トゥスクルム伯アルベリクス3世の息子息として[[ローマ]]に生まれる。名はテオフィラクトゥス(Theophylactus)。[[ベネディクトゥス8世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス8世]]と[[ヨハネス19世 (ローマ教皇)|ヨハネス19世]]の甥にあたる。1032年に父アルベリクス3世の支援により教皇に就任として戴冠する。このときベネディクトゥスは18~20歳という若さであり、資料によっては11~12歳だったともされるいう。
伝承によると、ベネディクトゥス9世は極めて放蕩に明け暮れるでたらめな生活を送ったという。[[ペトルス・ダミアニ]]はその著作『ゴモラの書』においてベネディクトゥスのこと9世を「聖職者に扮した地獄からの悪魔」とに喩え、[[教皇領庁]]の腐敗や教皇ベネディクトゥスの[[同性愛]]行為を批判した。また[[ピアチェンツァ]][[司教]]ベンノーによってもベネディクトゥスの犯した「嫌悪すべき姦淫と殺人」を非難され糾弾した。後になって年、教皇[[ウィクトル3世 (ローマ教皇)|ウィクトル3世]]は「ベネディクトゥスの[[強姦]]、[[殺人]]、そして口に出せないような行動所業」について調査を行わせており、その結論として「彼の教皇としての生涯は嫌悪すべきもので、腐りきったもので、忌まわしいものでしかない。私は身震いを禁じえない」と述べている。
ベネディクトゥス9世は[[1036年]]にローマを追放されたものの、この時は[[神聖ローマ帝国|神聖ローマ皇帝]][[コンラート2世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート2世]]の助力により短期間でローマに帰還した。だが[[1044年]]9月に再びローマを追放されると、教皇座を替わって[[シルウェステル3世 (ローマ教皇)|シルウェステル3世]](しばしば[[対立が教皇]]とに選出される)に取って代わられるいたが、[[ベネディクトゥスは翌1045年]]4月にはローマに入城し、シルウェステル3世を罷免廃位・破門の上追放して自ら教皇座に復位した。これが第2度目の教皇就任期間在位である。しかし同年直後の5月には、おそらく結婚をするために、教皇職を辞して教皇位を[[代父母|代父]]でにあたる司祭[[ヨハンネス・グラティアヌス]]に売却してしまった。その額売却益は金650kg650キログラム以上に相当するものだったとされているう。グラティアヌスは教皇[[グレゴリウス6世 (ローマ教皇)|グレゴリウス6世]]として即位。しかし戴冠するが、するとベネディクトゥスは教皇座位を売却したことを悔やみむようになり、すぐにグレゴリウス6世を退位させようとした。またさらにこのとき機に乗じてシルウェステル3世もまた自らの教皇座を要求としての正当性を掲げて表に出てきたというため、事態は混乱の極みに至った。
自ら曲がりなりにもそれぞれに主張するだけの正当性を主張すがある3人の教皇のが事実上鼎立するという異常事態に際しを受けて、神聖ローマ皇帝[[ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ3世]]がこの事態その調停に乗り出しすこととなり、1046年12月に[[ストリ]]にてで[[教会会議]]を開主催した。会議ではハインリヒ3世はがベネディクトゥス9世とシルウェステル3世の聖職を剥奪し、グレゴリウス6世に辞職するよう促は退位を勧告した。ハ上で、新たにドイツ人司教スイドガーを教皇[[クレメンリヒ3ス2世 (ローマ教皇)|クレメンス2世]]として即位させ、心機一転の出直しを図った。皇帝に従って、グレゴリウス6世は教皇座を退き位し、聖職を剥奪されたシルウェステル3世は聖職剥奪を甘受のちに赦されて故郷の司教として余生を送った。しかしが、一人ベネディクトゥス9世は従わず、[[ドイツ人]]司教スイドガー(Suidger)の教皇[[転んでもただでは起きなかった。クレメンス2世 (ローマ教皇)|クレメンス2世]]への即位も戴冠を真っ向から否定した。さらに、クレメンス2世が[[翌1047年]]10月に死去すると翌、11月には[[ラテラン宮殿]]を占拠、自身の教皇復位を再び宣言した。これ以後、ハインリヒ3世によって[[翌1048年]]7月に追放廃位されるまでの8カか月間が第3度目の教皇就任期間とな在位である。こののちハインリヒ3世は教皇ベネディクトゥスを追放すると、新たに[[ダマスス2世 (ローマ教皇)|ダマスス2世]]を即位教皇として戴冠させるた。ベネディクトゥスは[[翌1049年]]に[[シモニア]]の罪で出廷するよう要請召喚されるが、これを拒否、したことから結局[[破門]]されることとなった。
ベネディクトゥス9世はそこののち後にようやく教皇座を諦め位への未練から解き放たれ、[[グロッタフェッラータ]]の[[修道院]]にで静かな余生を送って[[1065年]]頃に死去したとされる。いい、また史料によっては[[1085年]]に死去したともされある。また他の研究ではによると、ベネディクトゥス9世はその後も今一度の復位を試みたものの[[果たせず、1055年]]か[[105656年]]の1月に死去したとされるいう。
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