「スウェーデンの歴史」の版間の差分

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最古のヴァリャーグの国家は、現在のロシア北部にあったとされる、8世紀後半から9世紀の半ばにかけて成立した[[ルーシ・カガン国]]で国家または[[都市国家]]群であり、[[ノース人]]の他、[[バルト人]]、[[スラヴ人]]、[[フィン人]]、[[テュルク系民族]]などで構成されていた。8世紀半ばに最初のスカンディナヴィア系の人々が[[移住]]を始めた。これらの移住先の街は、[[古ノルド語]]で「{{仮リンク|ガルダリキ|en|Gardarike}}(''Garðaríki''、砦の国)」と呼ばれるようになった。ルーシ・カガン国の存在は幾つかの文献と、[[1820年]]から行われた[[スタラヤ・ラドガ|ラドガ]]と北部ロシアの関連集落の発掘調査から確認されているものの、ルーシ諸国の建国は、このルーシ・カガン国の衰退後であり、その最期は不明である。
 
このようにヴァイキングとして各地に探検、植民をしてきたが、彼らの発祥の地であるスカンディナヴィア半島東では9世紀頃からスヴェア人の王国が建国され、[[自然崇拝]]による祭祀が営まれた。[[10世紀]]には[[キリスト教]]が伝来し、幾分の抵抗をともないながらも受容されて行った。しかしスウェーデンは、北欧では最も遅くまで[[異教]]の影響が残った。異教の王として[[スヴェアランド]]を支配した最古のスウェーデン王は、[[ユングリング家]]の[[エリク6世 (スウェーデン王)|エリク6世]]勝利王であったと言われ(古代の王や、[[北欧神話]]に登場するスウェーデン王がいたとされるが、その多くは各部族の王か、伝承や伝説上のもの)、スウェーデンの政治的統合体は、ヴァイキングの時代によってその原型が形成されたと言える<ref>百瀬、熊野、村井、p41 - p44。</ref>。また、最古のスウェーデン王の[[洗礼]]は、エリク6世の子[[オーロフ (スウェーデン王)|オーロフ・シェートコヌング]]の[[1008年]]頃<ref>百瀬、熊野、村井による『北欧史』年表27頁によれば、[[1000年]]頃。</ref>の[[西方教会]]の洗礼によるものだったが、完全なキリスト教化は12世紀半ばであった。宗教面、経済面、政治面で重要な中心地であるガムラ・ウプサラの大犠牲祭の司祭は王が務めることになっており、[[1164年]]に[[ガムラ・ウプサラ]]に大司教座が置かれるまでこの慣習が続けられた。スウェーデンのキリスト教化は、ガムラ・ウプサラに置かれたこの大司教座を中心として進められることとなる([[:en:Rus'-Byzantine<ref>百瀬、熊野、村井、p52 War- (987)]])p56。</ref>。ヴァイキング時代の[[都市]][[遺跡]]には、[[ビルカ]]や[[ホーヴゴーデン]]などがあるが、ビルカは11世紀以降の産物は発見されず、[[980年]]以前には消滅したものと考えられているが、ホーヴゴーデンは、スウェーデン王国の王領地のネットワークであるUppsala ödに含まれ、[[中世]]には王宮の所在地や行政上の中心地でもあった。城と教会も建造され、[[1279年]]には[[封建制|封建制度]]が確立している。
 
ビルカや[[ゴットランド島]]の[[ヴィスビュー]]は「[[ヴァリャーグからギリシャへの道]]」への起点でもあった。この交易路は、[[黒海]]や[[コンスタンティノープル]]、あるいは[[カスピ海]]へ至っていた水陸交易路であった。ヴァリャーグの伝説の王[[リューリク]]は[[862年]]にラドガを自身の都に定めたと伝えられている。ルーシの諸国はこのリューリクの後継者によって建国されたとスラヴ側の「[[原初年代記]]」は記している。またラドガは、10世紀及び11世紀のヴァイキングやスウェーデン、ノヴゴロド公国の動向が原初年代記や「[[サガ]]」などに文献として残った。ラドガの発掘品からもラドガが次第にヴァリャーグの街となっていったことが確認できている。