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父親は鹿児島の[[士族]]の[[家系]]の出身。また、[[明治]]・[[大正]]時代に活躍し、映画『ノンキナトウサン』の主役としても知られる[[曾我廼家五九郎]]は親戚にあたる。
 
鹿児島県師範学校附属小学校([[鹿児島大学教育学部附属小学校]])在学中、ボーイソプラノの歌い手として注目され、合唱団としてNHK鹿児島放送局のラジオ番組に出演。一家で東京大田区池上へ引越し、[[大田区立池上第二小学校|池上第二小学校]]、私立[[麻布中学校・高等学校|麻布中学校]]を経て[[慶應義塾大学]][[法学部]]卒業。中学時代の同級に、[[小沢昭一]]、[[加藤武]]がいた。
 
[[1946年]]8月の[[バレエ]]「[[白鳥の湖]]」日本初演(第一次[[東京バレエ団]])では男性ダンサーが足りず、立ち役は早稲田、慶應、上智の各大学の演劇部の学生が演じ、慶応大学法学部の学生だったフランキー堺も出演している。
 
大学時代から[[進駐軍]]のキャンプでバンド「シックスレモンズ」のジャズ・ドラマーとして演奏し、芸能界へ進む。芸名のフランキーは進駐軍相手に演奏を行うため通りがいいように名付けた。1954年に[[フランキー堺とシティ・スリッカーズ]]を結成して、[[スパイク・ジョーンズ (音楽)|スパイク・ジョーンズ]]をまねた[[冗談音楽]]を演奏。築地のクラブで演奏してると、俳優[[伴淳三郎]]と知り合い、念願の役者へ。
 
後に[[映画]]に進出して、『[[駅前シリーズ]]』など、喜劇を中心に出演。その一方、[[BC級戦犯]]の悲劇を描いて[[テレビドラマ]]から映画にもなった『[[私は貝になりたい]]』、『[[赤かぶ検事奮戦記]]』などの社会派ドラマ、『[[幕末太陽傳]]』などの時代劇、そして『[[モスラ]]』や『[[世界大戦争]]』などの[[特撮]]まで、俳優としても幅広く活躍した。