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== 生涯 ==
[[応永]]24年([[1417年]])、伯父の[[岩松満純|満純]]が[[上杉禅秀]]に与して敗死すると([[上杉禅秀の乱]])、祖父[[岩松満国|満国]]から岩松家の後継者に指名された。この処置は満純が反逆者となったため、彼と無関係の幼少の孫を擁立して一族に罪が及ぶ事を避けるためと見られる。後にもう1人の伯父・[[岩松満長|満長]](みつなが)の養子となり、一族が土用安丸(持国)を支える体制を取り、所領は満長を経由して土用安丸に渡される仕組みになる。一方、満純の子・[[岩松家純|家純]]は[[長楽寺 (太田市)|長楽寺]]で出家、[[京都市|京都]]へと落ち延びていった。
 
土用安丸は[[永享]]7年([[1435年]])までに[[元服]]して[[鎌倉公方]][[足利持氏]]の[[偏諱]]を受けて左馬助'''持国'''(「国」は祖父・満国の1字)と名を改め、以後は持氏の部将として活動した。しかし、[[永享]]10年([[1438年]])に持氏は[[室町幕府]]と対立、[[永享の乱]]が起こり、翌年に持氏は敗死。[[永享]]12年([[1440年]])の[[結城合戦]]で持国は結城側に立ち、幕府軍と戦ったが家純は幕府軍に参加した。[[結城城]]は落城、[[嘉吉]]元年([[1441年]])に6代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義教]]が[[暗殺]]されて([[嘉吉の乱]])持国は討伐を免れたが、家純は後ろ盾を失い帰京した。
 
[[文安]]4年([[1447年]])、持氏の遺児・[[足利成氏|成氏]]が[[鎌倉市|鎌倉]]に帰還、鎌倉公方に就任した。しかし、成氏は先の2合戦で幕府方の[[上杉氏]]と対立、[[享徳]]3年([[1454年]])に[[関東管領]][[上杉憲忠]]を暗殺、[[享徳の乱]]を勃発させた。持国は成氏の命令を受けて山内屋敷を襲撃、[[長尾実景]]・[[長尾景住|景住]]父子を殺害した。
 
その後は[[古河公方]]となった成氏の元で[[上野国|上野]]で上杉軍と戦ったが、[[長禄]]2年([[1458年]])に[[堀越公方]][[足利政知]]が関東に下向、家純もこれに従い下向した。それに伴い、家純と家臣の[[横瀬国繁]]は政知と執事の[[渋川義鏡]]と協力して持国に帰服の書状を送った。8月に持国は所領安堵を認められたので幕府に寝返った。翌年の[[五十子の戦い|太田庄の戦い]]で息子と共に上杉側として参戦している。
 
ところが、[[寛正]]2年([[1461年]])に持国は長男の[[岩松次郎|次郎]]と共に家純に暗殺されてしまった。この事件は8代将軍[[足利義政]]が家純に持国父子が成氏に再び寝返ろうとした所を家純が討ち取った褒賞を与える事を書いた書状以外に資料がない為、真相は不明である。
 
次男の[[岩松成兼|成兼]]は成氏についたが、[[応仁]]2年([[1468年]])に上野で[[綱取原合戦]]が勃発、上杉方が勝利し、翌年に成兼は上野から追放された。そして、岩松氏は家純に統一された。