「パトリス・ド・マクマオン」の版間の差分

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|allegiance = [[フランス陸軍]]
|serviceyears = 1827 - 1873
|rank = [[ファイル:Officier général francais 7 etoiles.svg|30px]] {{仮リンク|[[フランス元帥|enlink|Marshal of France}}]]
|unit =
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ルイ大王高等中学と[[サン・シール陸軍士官学校]]で学び、[[1827年]]に卒業した。陸軍ではアシャール将軍の副官を務め、[[1830年]]の[[アルジェリア侵略|アルジェリア征服戦争]]に参加した。[[1834年]]から[[1854年]]までアルジェリアに在勤し、[[1837年]]の[[コンスタンティーヌ]]攻撃で負傷した。[[1843年]]には[[フランス外人部隊]]司令官となり、[[1852年]]少将に昇進した。[[クリミア戦争]]では[[1855年]][[9月8日]]の総攻撃に際して[[セバストーポリ]]の[[マラコフの戦い]]で傑出した功績を立て、フランス陸軍最高のポストに内定したが、謝絶してアルジェリアに戻ることを選択した。[[1856年]]には上院議員に任命されている。
 
[[ナポレオン3世]]が[[イタリア統一戦争]]に介入した戦役では第2軍団司令官として[[オーストリア帝国|オーストリア]]と戦い、[[1859年]][[6月4日]]の[[マジェンタの戦い]]でフランスの勝利を決めた。このため後にナポレオン3世によって[[マジェンタ]]公爵の称号を贈られている([[フランス元帥]])。[[1864年]][[9月1日]]からアルジェリア総督となり、[[1870年]]の[[普仏戦争]]が勃発するとアルザス軍を率いて戦った。
 
=== 大統領職 ===