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230年、呉帝孫権は、[[巣湖]]周辺を囲うように東興に堤防を築かせた。
 
252年10月、孫権が崩御すると、魏の大将軍司馬師は呉への侵攻の機会をうかがうようになる。呉の大将軍諸葛恪は、魏の襲来に備えるため東興の堤防を改築しその長さを増大させ、南郡と武昌をそれぞれ攻撃させ、堤の左右の山地に堤を挟む形で二つの城を築いた。また、[[全端]]と[[留略]]に千人の兵士をそれぞれ与えて二つの城を守らせた。
 
==戦いの経緯==
252年12月、司馬師は鎮東將軍諸葛誕、征東將軍胡遵らに呉への侵攻を命じ、安東將軍司馬昭を監軍として随行させた。諸葛誕は軍を3路に分けて進軍させ、王昶・毌丘倹には陽動のため南郡と武昌を攻撃させ、諸葛誕自身は七万の兵を率いて東興に進軍した。諸葛誕らは堤を決壊させるべく、船を並べて浮橋を築き、浮橋を渡り堤の上に進軍し、堤の上に陣を張り、堤の左右の山地に築かれた二つの城に攻撃をかけた。そこで、諸葛恪は丁奉・留賛・呂拠・唐咨らを先鋒として魏軍を攻撃し、撃破した。敗走した魏軍はあわてて浮橋に殺到したが、呉の朱異によって浮橋が壊されたので大混乱になり、魏軍は韓綜・桓嘉をはじめ数万人が戦死した。
 
== 戦後 ==