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==戦いの経緯==
252年12月、魏の大将軍司馬師は鎮東將軍[[諸葛誕]]、[[胡遵]]らに呉への侵攻を命じ、安東將軍[[司馬昭]]を監軍として随行させた。諸葛誕は軍を3路に分けて進軍させ、[[王昶]]・[[毌丘倹]]には陽動のため南郡(現在の[[湖北省]][[荊州市]])と武昌(現在の[[湖北省]][[鄂州市]])を攻撃させ、諸葛誕自身は七万の兵を率いて東興に向かった。東興に進軍した諸葛誕らは堤を決壊させるべく、船を並べて浮橋を築いて渡り堤の上に進軍して陣を張った。そして、全端・留略が守る堤の左右の山地に築かれた二つの城に攻撃をかけたが、地勢が険しかったため落とすことはできなかった。
 
これに対し呉軍は、諸葛恪が軍の指揮に当たり、[[丁奉]][[留賛]][[呂拠]][[唐咨]]らを引き連れ東興に軍を進めた。諸葛恪が長江を越えて東興に上陸すると、丁奉は将軍の唐咨、呂拠、留賛らとともに、山岳地帯を通って西方に向かい上流に出ようとした。しかしこのとき、丁奉はそれぞれの軍団の動きが遅いことを見て、敵に先手を取られないよう迅速に行軍するため、味方は別行動をとらせ、一人で三千の兵を率いて敵陣に急行した。幸いにもそとき、北風が吹いていたためので、丁奉は船に帆を張らせかけ進むと二日で戦場に到着し、丁奉は徐塘という地に陣営を張った。そして、敵陣を視察すると雪が降るような寒い日であったため、敵の武将たちが宴会を開いて完全に油断をしきっていた。丁奉は魏軍の前衛が薄いのを見て取り、兵士を鼓舞しつつ鎧を脱がせて冑に剣だけを持たせて奇襲をかけ、丁奉に前衛陣地を散々に撃破された。その時、呂拠らが遅れて戦場に到着し、ともに攻撃して大破させた。
 
その後、敗走した魏軍はあわてて浮橋に殺到したが、呉の[[朱異]]によって浮橋が壊されたので大混乱にり、魏軍は[[韓綜]]・[[桓嘉]]をはじめ数万人が戦死した。そして、この大敗により南郡、武昌に進軍した魏軍はそれ以上の侵攻を諦めて陣を焼き払って撤退した。
 
== 戦後 ==
呉はこの戦いで多大な牛馬や軍事物資を手に入れた。諸葛恪はこの功績により陽都侯・揚州牧・荊州牧に任ぜられ、国内の軍事全般の指揮を任されることになり、丞相にも昇進した。だが、この戦いの勝利に気をよくした諸葛恪は、翌年に周りの諫めを無視して、大軍を率いて魏に侵攻するも攻め落とす事は出来ず、疫病が大流行し非常に多くの兵を失う。これにより諸葛恪は人望を失ってしまい、孫峻らのクーデターにより殺されてしまうことになる。
 
国内では、この敗戦の罪を諸将に問うべきという意見がこの時朝廷ではあったが、司馬師は「諫言を聞かずここに至った。これは私の過失である。諸将に何の罪があろうか」とその罪を自ら引き受けようとしたため、かえって人々は皆恥じてその度量に服したという。
 
== 関連項目 ==