「フランソワ・ド・ヌフヴィル (ヴィルロワ公)」の版間の差分

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'''ヴィルロワ公フランソワ・ド・ヌフヴィル'''(François de Neufville, duc de Villeroy, [[1644年]][[4月7日]] - [[1730年]][[7月18日]])は、[[フランス王国|フランス]]・[[ブルボン朝]]の貴族、軍人。[[フランス元帥]][[ニコラ・ド・ヌフヴィル (ヴィルロワ公)|ニコラ・ド・ヌフヴィル]]の次男。
 
幼少時からフランス王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]に付き従い軍歴を重ね、[[1693年]]に[[フランス元帥|元帥]]に任命、[[1695年]]に死去した[[フランソワ・アンリ・ド・モンモランシー (リュクサンブール公)|リュクサンブール公]]の後を受けて[[大同盟戦争]]における[[南ネーデルラント]]戦線を担当した。[[ブリュッセル]]包囲を敢行して落とそうと図り、[[イングランド王国|イングランド]]王[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]率いる同盟軍に包囲された[[ナミュール]]の救援に向かったが、いずれも果たせずに終わった([[ナミュール包囲戦 (1695年)|第二次ナミュール包囲戦]])。ブリュッセル包囲時に広場の[[グラン=プラス (ブリュッセル)|グラン=プラス]]がフランス軍の砲撃で被害に遭っている。
 
[[1701年]]、[[スペイン継承戦争]]が勃発すると[[ニコラ・カティナ]]に代わって[[イタリア]]戦線に派遣されたが、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]の将軍[[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|プリンツ・オイゲン]]に[[キアーリの戦い]]で敗北、翌[[1702年]]の[[クレモナの戦い]]で捕虜となり、解放後は[[ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボン|ヴァンドーム公]]と交替、ネーデルラント戦線へ送られ[[ルイ・フランソワ・ド・ブーフレール|ブーフレール]]に代わって[[イングランド王国|イングランド]]軍司令官[[マールバラ公]][[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|ジョン・チャーチル]]と相対、[[アントウェルペン|アントワープ]]からナミュールまでの防衛線を固めた。しかし、[[1704年]]に入って[[ドイツ]]へ南下したマールバラ公を取り逃がした上、[[ブレンハイムの戦い]]で敗れたフランス軍の敗残兵を収容したものの同盟軍の勢いに圧倒され、ドイツ戦線の後退を余儀なくされた。