「東興の戦い」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Tony1250 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
Tony1250 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
21行目:
 
==事前の経緯==
252年10月、呉帝孫権が崩御すると、魏の征東将軍[[胡遵]]は[[毌丘倹]]、[[王昶]]と共に呉征伐を計画し上奏した。呉の大将軍諸葛恪は、魏の襲来を想定し[[巣湖]]周辺の東興にある堤防改築を行った。この堤防はかつて呉帝孫権が築いたものであり、諸葛恪はこれを補強して堤の左右の山地に堤を挟む形で二つの城を築いた。また、[[全端]]と[[留略]]に千人の兵士をそれぞれ与えて二つの城を守らせた。
230年、呉帝孫権は、[[巣湖]]周辺の東興に堤防を築かせた。
 
252年10月、孫権が崩御すると、魏の征東将軍[[胡遵]]は[[毌丘倹]]、[[王昶]]と共に呉征伐を計画し上奏した。呉の大将軍諸葛恪は、魏の襲来を想定し東興の堤防を改築し、堤の左右の山地に堤を挟む形で二つの城を築いた。また、[[全端]]と[[留略]]に千人の兵士をそれぞれ与えて二つの城を守らせた。
 
==戦いの経緯==