「竹鶴リタ」の版間の差分

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当初は、政孝が摂津酒造に就職したため、現在の[[大阪府]][[大阪市]][[住吉区]][[帝塚山]]に居住。[[帝塚山学院]]の英語教師・英会話・ピアノ教師などを歴任。また[[1924年]](大正13年)・[[1931年]](昭和6年)には政孝の視察に同行する形でスコットランドに帰郷している。その後[[神奈川県]][[鎌倉市]]に移住したが、[[1934年]](昭和9年)には政孝が寿屋(現・[[サントリー]])を退社。[[北海道]][[余市郡]][[余市町]]で大日本果汁を設立し、[[余市蒸溜所]]を開設して所内に居住。リタも翌[[1935年]](昭和10年)9月、余市町へ転居した<ref name="road">[http://www.hokkaido-np.co.jp/cont/100roads_introduction/160720.html リタロード] 北海道新聞 [ほっかいどう100の道]</ref>。
 
[[1924]](大正13年)に妊娠をしたが、流産してしまう。それ以降、夫妻には子供が出来なかったため、[[1930年]](昭和5年)には山口広治・シゲ夫妻の子供である房子(後に改名してリマとなる)を、[[1943年]](昭和18年)には政孝の甥である[[竹鶴威|宮野威]]を養子として迎えた。しかし、養女のリマと夫妻との関係は次第に悪くなっていき、リタの晩年になるまで関係は修復されなかった。
 
[[1955年]](昭和30年)に肝臓や肺を病んだことから、冬季は政孝が東京で仕事をする際滞在する神奈川県[[逗子市]]で<ref>逗子滞在時には週1回[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]]の[[聖路加国際病院]]へ通院した記録がある。</ref>、そして夏季は余市で、生活するようになる。