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帰郷後、[[歩兵第60連隊]]に[[幹部候補生 (日本軍)#一年志願兵制度による予備役幹部補充|一年志願兵]]として入営し、更に[[1915年]]に再訓練を受けて歩兵少尉に任官した。この年に行われた[[第12回衆議院議員総選挙]]に立候補した[[樋口龍峡]]の選挙運動を支援し、同じ選挙区から立候補していた[[伊原五郎兵衛]]の出馬辞退工作や下伊那郡における[[大隈伯後援会]]の支部結成に関与した。樋口はこの総選挙において得票第3位で初当選を飾ったが、これ以降も中原は樋口を支え、歩みを共にした。1915年7月、南信地域における[[立憲同志会]]系地方紙の信濃時事新聞社に入社し、1919年には南信電気株式会社の支配人、のちに監査役に就任した。
 
[[1924年]]10月、LYL事件(社会主義傾向を見せていた青年団体であるLYL(Liberal Younger's League)の幹部らが[[治安警察法]]違反により検挙された事件。幹部の一人にのちに代議士となる[[羽生三七]]がいた)が発生すると、下伊那郡の地方名望家層は下伊那郡国民精神作興会を結成し、青年の思想善導を目指した。中原は、これに理事として名を連ねると共に、[[1925年]]に下伊那郡役所で開催された「軍教問題対談会」に[[在郷軍人会]]代表の一人として論陣を張り、これ以降、下伊那郡国民精神作興会の主唱者であった[[森本州平]]と協力しつつ、右翼系団体の結成に努めた。中原は、森本を介して[[全日本興国同志会]]に参加し、更にその地域団体として猶興社準備会を結成した([[1930年]]に正式発足)。
 
[[1931年]]、この猶興社を土台として[[愛国勤労党]]南信支部を結成し、同年9月に施行された長野県会議員選挙に中原は出馬し、初当選を飾った。翌年2月に施行された[[第18回衆議院議員総選挙]]にも出馬したが、中原への支持が広がらず得票最下位で落選した。中原は、在郷軍人の政治的組織化を目指し、[[1932年]]5月に在郷軍人有志らと共に[[信州郷軍同志会]]を結成し、同会の理論的指導者となった。信州郷軍同志会は、[[1933年]]に[[桐生悠々]]が「関東防空大演習を嗤ふ」を発表したことを受けて[[信濃毎日新聞]]不買運動を展開し、桐生を退社に追い込むなど自由主義的・反軍的言論の排撃運動を展開し、地域において無視し得ない存在となっていった。