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=== 江戸時代 ===
* [[1600年]](慶長5年) この年2月に田丸直昌の後釜4万石して領地を交換する形で、[[森忠政]]が13万7500石で兄の森長可所縁の土地へ入封。同時に豊臣家の蔵入地9万石無くな廃止される。この時、海津城から'''待城'''(まつしろ)へと改名される。<ref>忠政は兄長可と同じ地へ入領することをかねてより希望しており、兄の遺恨を晴らすのを心待ちにしていたから「待城」と名付けた、と伝えられている。3月に入城した忠政は入領してすぐに[[天正壬午の乱]]の際に兄を裏切った[[高坂昌元]]([[高坂氏]])の一門を探し出して磔に架けるなどの措置を行っている。</ref>
* [[1602年]](慶長7年)8月、忠政、「右近検地」と呼ばれる信濃4郡全てを対象とした総検地を実施。農民が反発し大規模な全領一揆となったが、忠政は一揆を徹底的に殲滅し、捕縛された一揆衆も鳥打峠で数百人単位で磔に架けられ処刑され、死者は600人余りに及んだ。
* [[1603年]](慶長8年) 森忠政が[[美作国|美作]]一国([[津山藩]])18万6500石へと加増転封されると[[松平忠輝]]が14万石(12万石?)で入封する。忠輝は加増されて[[越後高田藩]]主75万石となるが松代旧領も引き続き領有したため、家老[[花井吉成]]が城代として統治して領内の整備に尽力した。この忠輝領主時代に待城から'''松城'''へと改名されたという。忠輝以後は[[松平忠昌]]、[[酒井忠勝 (出羽国庄内藩主)|酒井忠勝]]と続く
* [[1622年]](元和8年) [[真田信之]]が入城。以後、[[松代藩]]の藩庁として[[明治維新]]まで[[真田氏]]の居城となった。
* [[17111616年]](正徳[[和]]2年) 幕命によ松平忠輝改易。代わって[[松平忠昌]]が12万石で入、この忠昌領主時代に待城から'''松城'''名をめら名された。
* [[1619年]](元和5年)松平忠昌、越後高田25万9000石へ転封。[[酒井忠勝 (出羽国庄内藩主)|酒井忠勝]]10万石が入封。
* [[1717年]](享保2年) 火災により本丸、二の丸、三の丸を焼失する。
* [[1622年]](元和8年) 酒井忠勝、[[出羽国]][[庄内藩]]13万8千石に転封。[[真田信之]]が13万石で入城。以後、[[松代藩]]の藩庁として[[明治維新]]まで[[真田氏]]の居城となった。
* [[1718年]](享保3年) 幕府より1万両借財、再建する。
* [[17421711年]](寛保2年) [[戌の満水正徳]]元年) 幕命により被害を受ける。城主が'''松代南にある開善寺へ船で避難する城'''と名を改められた
* [[1717年]]([[享保]]2年) 火災により本丸、二の丸、三の丸を焼失する。
* [[1718年]]([[享保]]3年) 幕府より1万両借財、再建する。
* [[1742年]]([[寛保]]2年) [[戌の満水]]により被害を受ける。城主が松代南にある開善寺へ船で避難する。
* [[1752年]](宝暦3年) 藩の執政原八郎五郎により城の北側を流れていた千曲川を瀬直しする。旧流路は百間堀となる。
* [[1770年]](明和7年) 花の丸に御殿を移す。