「イタリア王国 (1805年-1814年)」の版間の差分

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[[1805年]][[3月18日]]、プレスブルクの平和とともに[[オーストリア帝国]]は[[ゴリツィア]]と[[ヴェネツィア|ヴェネト県]]を放棄した。ヴェネトは[[イタリア共和国 (1802年-1805年)|イタリア共和国]]に統合され、「イタリア王国」が創られることとなる。
 
ナポレオン・ボナパルトは1804年に[[ピウス7世 (ローマ教皇)|ピウス7世]]により戴冠され、[[護憲元老院 (フランス)|元老院]]によりフランス皇帝と宣言された。イタリア共和国もイタリア王国に変えられ、ナポレオン自身がイタリア王となり、[[ミラノのドゥオーモ]]の内部で1805年5月26日に戴冠した。そして、ナポレオンを盲目的に信頼し、自身の政治的目的の追求を恐れない養子の[[ウジェーヌ・ド・ボアルネ]]がイタリア副王に任命された。
 
[[1809年]]には[[ゴリツィア]]と[[トリエステ]]、[[イストリア]]、[[ダルマツィア]]、カッターロ湾は王国からはずされ、[[リュブリャナ]]を州都とする[[イリュリア州]]としてフランスの支配下となった。