「アテナイ」の版間の差分

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貧富の差の拡大は、アテナイ社会の深刻な問題となっていた。「六分の一([[ヘクテモロイ]])」と称される奴隷や農奴の上に位置した市民貧困層は債務奴隷となり他ポリスに売却されることもあったため、こうした事態がアテナイの弱体化につながる懸念もあった。一方、アテナイ成立の早期より、市民権を持つ富裕な市民は自弁して[[重装歩兵]]となりポリス防衛や略奪、敵対部族の撃滅などに活躍して発言力を強めており、身分により指導部が下した政治決定への意思表明機会に区別があることは、当時の兵役を請負う市民から不平不満が高まっていた。こうした状況を受け、紀元前594年に[[アルコン]]に就任した[[ソロン]]は、市民の債務を帳消しにすると共に市民の債務奴隷化を禁止させ、アテナイ内に於けるアテナイ市民(もちろん奴隷や農奴に指導部が下した政治判断への投票参加は認められず、奴隷は人格も認められない)の地位を守ると共に、財産額によって市民を4等級に分け、その等級に応じて指導部が下した政治決定に賛否を表明する投票への参加を認めた。これにより家柄でなく財産の多寡が政治参加の度合いを決める事となった。
 
ところが、ソロンの改革を巡っては、古くからの特権を保持する貴族と改革支持派が対立し、それぞれの居住区から前者は平野党(Pediaei)、後者は海岸党(Paraloi)と呼ばれた。更に後者からは急進改革派である高地党(Hyperakrioi、後に山地党(Diakrioi)と改名)が分離して、ソロンが引退すると三派が激しく争った。紀元前561年に権力を掌握した[[僭主]][[ペイシストラトス]]は、山地党の支持を受けて、中小農民の保護育成につとめ貴族に打撃を与えた。僭主を倒した[[クレイステネス]]は、紀元前508年に10部族制を創設し市民を再編して[[五百人評議会]]の設置とオストラキスモス([[陶片追放]])を採用した。
 
=== 軍事民主制の発展と確立 ===
[[ペルシア戦争]]に勝利したアテナイは、[[サラミスの海戦]]などで[[三段櫂船]]の漕手として活躍した下層[[市民]]の発言権が強まり、[[ペリクレス]]時代には「[[五百人評議会]](有力者層から成る)」の方針を討議する「[[民会]]」(参照:[[プニュクス]])も設置された。一部の上級職(将軍職)を除いた全ての公職が[[市民]]に解放され、出自や能力に関係なく立候補が可能になった。また、経済的に任に堪えない市民(市民のみが兵役の義務を負う)に対しては「公職手当」が支給された。後世、[[ソクラテス]]や[[プラトン]]は「市民を怠け者にした」として、これを非難する。
 
公職は、毎年改選される[[将軍職 (アテナイ)|将軍職]]を除いて、その地位を希望する市民に対して籤引きで決定された。籤引きは神による選択の現れとも信じられていて、アテナイ人はそれが純粋に民主的であると考えていた。これに対してソクラテスや[[アリストテレス]]は専門的知識が必要な決定ですらそれを持たない市民で決められてしまうと批判するが、こうした批判は正しいと言わざるを得ない、なぜなら後にソクラテスは専門的な法律知識を有する者が参加していない籤引きで選ばれた裁判官の私感によって、[[死刑]]判決が下されたからである。