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Tony1250 (会話 | 投稿記録)
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一方で、新たに太子となった[[孫和]]の妃が姪であったため、張休は孫和と[[孫覇]](魯王)の対立([[二宮事件|二宮の変]])に巻き込まれるようになっていった(「孫和伝」)。
 
[[241年]]、[[芍陂の戦い]]において[[魏 (三国)|魏]]の[[王凌|王淩]]と対戦し、[[全ソウ|全琮]]の指揮下で[[全端]]ら全一族や[[顧承]]と共に奮戦して劣勢となった軍を支えたが、戦後の恩賞を巡り全一族と対立した。この時、全一族には孫覇派の一人である全寄もいたため、全寄達から顧承と張休が典軍の陳洵と結託し不正を働いたと讒言され、罪を得て顧譚・顧承と共に[[交州]]へ流罪にされてしまった。
 
また、[[孫弘]]は元々張休と不仲であったため、流罪の身の張休をさらに讒訴した。このことで張休は孫権から死を命じられ、まもなく自害した。41歳だったという。