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Tony1250 (会話 | 投稿記録)
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正元2年([[255年]])正月、毌丘倹と文欽は5・6万の兵力を動員して反乱を起こした。西方の項城に進み、文欽は城外で遊軍となった。司馬師は直ちに追討軍を率いて、[[胡遵]]・諸葛誕・[[王基]]といった者達に州郡の兵士を動員させ親征してきた。毌丘倹と文欽は項城に釘付けとなって[[寿春]]に戻る事もできず、為す術もなかった。
 
司馬師は楽嘉に別働隊を送り敵を誘わせると共に、自らも楽嘉に軍を進めた。文欽は楽嘉方面の迎撃にあたった。子の文鴦が楽嘉で奮戦し、司馬師を追い詰める活躍をしたが(『魏氏春秋』)、文欽自身は戦線に間に合わず敗れ、司馬師の大軍の前に逃走した。元曹爽部下の[[尹大目]]は、陣中での司馬師の病状が悪化した事を文欽に伝えようとしたが、文欽はそれに気付く事ができなかった(『魏末伝』)。文欽は、寿春を狙って北上していた呉の[[孫峻]]・[[呂拠]]らの軍と合流し寿春入りを目指したが、寿春が既に諸葛誕に占領されていたため失敗、そのまま呉へ亡命した([[寿春三叛#毌丘倹・文欽の乱|毌丘倹・文欽の乱]])(『三国志』魏志「諸葛誕伝」)。
 
文欽は呉においても、心を抑え他者に遜る事ができなかった為に、武将である朱異を始めとする諸将から常に憎悪されていた。但し、実権を握る孫峻には信任され、仮節・鎮北[[大将軍]]・[[幽州]][[刺史|牧]]・譙侯に任命された。[[256年]]、孫峻に北伐を勧め、呂拠・朱異・[[劉簒]]・[[唐咨]]らと共に先遣隊を率いて北上した。孫峻が急死し[[孫チン|孫綝]]が継ぐと、これに不満な呂拠は非難の上奏をした。文欽は一度はこれに同調したが、孫綝から呂拠追討の命令を受けるとこれに応じ、呂拠を滅ぼした。