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『'''建内記'''』(けんないき)は、[[室町時代]]の公卿[[万里小路時房]]の日記。「けんだいき」とも読まれる。書名は時房の[[法号]]である「建聖院」と、時房の[[極官]]である[[内大臣]]に由来。後世の人が時房の日記を「建聖院内府記」と呼び、この呼称が略されて「建内記」の呼称が定着した。「[[満済准后日記]]」「[[薩戒記]]」「[[看聞日記]]」と並び、室町時代中期の日記を代表する。
 
記述は[[1414年]]([[応永]]21年)から[[1455年]]([[康正]]元年)まで及ぶが、現在する記述は断片的である。[[1429年]]([[永享]]元年)から[[1449年]]([[宝徳]]元年)の20年分の記述が、最も欠落が少なく、現存状態が良好とされる。筆者時房は[[寺社伝奏|南都伝奏]]、[[勧修寺流|勧修寺]][[氏長者]]などを担当し、幕府とも密接な関係にあった。そのため、伝奏、氏長者としての仕事や、幕府、公武関係の動向に関する記述が豊富。将軍[[足利義教]]が横死した[[嘉吉の乱]]、[[嘉吉の徳政一揆]]の経緯についても詳らかに記述する。また[[万里小路家]]が保有する荘園が年貢滞納のために武士、商人、僧侶らに[[代官請]]に移行しなければならなくなった経緯など、社会経済に関する記述が多い。これは公家の日記の中でも特色とされ、室町中期の社会経済史研究に有益な情報を提供する。
 
時房の死後、日記は実子の[[万里小路冬房|冬房]]、[[甘露寺家]]から養子に入った[[万里小路春房|春房]]、さらに[[勧修寺家]]から養子に入った[[万里小路賢房|賢房]]の手に渡り、賢房の実父である[[勧修寺教秀]]の所有するところとなっていた。[[中御門宣胤]]の[[1489年]]([[延徳]]元年)の日記から、この時教秀が『建内記』を所有していたことが確認される。