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[[File:Ozaki Kihaci.jpg|thumb|120px|尾崎喜八]]
'''尾崎 喜八'''(おざき きはち、[[1892年]][[1月31日]] - [[1974年]][[2月4日]])は、[[日本]]の[[詩人]]、[[随筆家]]、[[翻訳家]]。
 
== 人物略歴 ==
[[東京府]][[東京市]][[京橋区]](現在の[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]]京橋)出身。築地小学校、[[京華商業高等学校|京華商業学校]]卒業した後は独学を続ける<ref>{{Cite book|和書|author=草野心平・編|year=1953|title=日本詩人全集 第五巻|publisher=創元文庫|pages=91p}}</ref>。23歳の頃に高村光太郎・武者小路実篤を知り、白樺派の理想主義の影響下に詩作を始めた。また、[[ロマン・ロラン]]や[[エクトル・ベルリオーズ]]等の翻訳を『白樺』に連載した。以来、詩・随筆の訳業として、文通のあったロラン、[[ヘルマン・ヘッセ]]を始め、[[ライナー・マリア・リルケ]]、[[モーリス・メーテルリンク]] 、[[ シャルル・ヴィルドラック]]、[[ジョルジュ・デュアメル]] など私淑する外国作家の翻訳がある。さらに、[[片山敏彦]]・[[高田博厚]]らと文芸誌『大街道』を創刊し、『東方』を自費刊行する。同人雑誌では『生命の河』『銅鑼』『歴程』などに関係した<ref>{{Cite book|和書|author=草野心平・編|year=1953|title=日本詩人全集 第五巻|publisher=創元文庫|pages=91p}}</ref>。戦前から太平洋戦争の直後まで、東京郊外に文化的半農生活を営んだが、昭和21年からは妻子とともに長野県に移り住む。
[[東京府]][[東京市]][[京橋区]](現在の[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]]京橋)出身。[[京華商業高等学校|京華商業学校]]卒業。
 
==作風==
山岳と自然を主題とした[[詩]]や[[散文]]に多くの優れた作品を残した。詩、博物学的な自然と人間についてのエッセイ、翻訳のほかに、クラシック音楽への造詣も深く、最晩年の音楽随筆集『音楽への愛と感謝』などがある。自然と人間についての思索にみちた詩・随筆に独自の境地を開いた
 
[[ロマン・ロラン]] と[[白樺派]] の影響下に文学的出発をした後、[[高村光太郎]]とともに詩と芸術への研鑽を重ねた。その後、自然と人間についての思索にみちた詩・随筆に独自の境地を開いた。
 
詩・随筆の訳業として、文通のあったロラン、[[ヘルマン・ヘッセ]]を始め、[[ライナー・マリア・リルケ]]、[[モーリス・メーテルリンク]] 、[[ シャルル・ヴィルドラック]]、[[ジョルジュ・デュアメル]] などの珠玉の翻訳がある。
 
一般的には[[美ヶ原]]の美しの塔に刻まれた詩'''「美ヶ原熔岩台地」'''が知られている。また、戦後の7年間、長野県諏訪郡富士見町に住み、後期の代表作である詩集『花咲ける孤独』を書いた。この時期に、戦前から続く長野県の自然と郷土と山々への愛着はさらに深まり、[[長野県]]下の小中学校を中心として多くの[[校歌]]を作詞した。また、職業野球球団の『[[翼軍|東京セネタース]]』球団歌の作詞も手掛けている。
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毎年、2月第1土曜日を目処に、遺族・ファン・研究者が集う「臘梅忌」が東京で開かれている。(2014年現在、第40回)
 
== 脚注 ==
<references/>
 
== 外部リンク ==